季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(3)(書肆山田、2011年01月17日発行)
季村のことばには「気迫」がある。「気」というのは、たぶん、そのひとの「内部」にとどまらない。ことばの場合だと、ことばを内部からはみ出していく、あふれていくものだと思う。--あふれてくるもの、ことば以上のものを感じるから「気迫」を感じると、私はわかったふりをして書いてしまうのだが、そのあふれた「気」はどうなるのだろう。「内部」からあふれてしまったものは、どうやって形を保つのだろう。「気」は、どうやって結晶するのだろう。
「夢の漣」。
最初から3連目までを引用したが、この3連目は、いったいだれのことばなのだろう。だれの記憶なのだろう。父の記憶--父から聞かされた記憶なのか。それとも父の戦友の記憶なのか。あるいは、「私」(季村)の記憶なのか。
判然としない。
1連目の「舟」そのものも、いったいだれが見た舟なのかはっきりしない。それは季村の夢に出てきたのだから、季村の見た舟といってしまってもいいのかもしれないが、そこに父の記憶、戦友の記憶、それから父とともに生きた時代の多くのひとの記憶がまじりあっているように感じる。
季村のことばに、ことばを発することのないひとびとの叫びがからみついているように思える。
気迫のあることば--ことばからあふれた気は、いま、ここに、いないひとの、ことばにならなかった「気」とぶつかり、結晶して、だれのものでもないことば、だれのものでもありうることばになる。
「光庭--資料館で」。その書き出し。
ここに「だれ」が出てくる。それは「だれ」と書かれているが、「だれ」であるか、季村は知っている。「だれ」であると特定できないけれど、知っている。たとえば、父と戦友と、あるいは帰れなかったひとび……その「顔」は見えないけれど、動きが見えるひとたちである。
別の連。
季村のことば、ことばからあふれた「気」は、他人のことばにならななかった「気」と出会う。資料館で。父の足跡ののこる場で。そして、多くのひとの「気」をあびながら、季村のことばの「気迫」はさらに充実していく。
そして、ことばは、だれのものでもなくなる。ここに書かれていることばはだれのものか。そんなことを問う必要はない。それは季村のことばであり、季村にそう語らさせた多くのひとのことばである。季村は、もう季村であることをやめてしまっている。
きのう読んだ伊藤比呂美が「私は私である」と書いていたが、季村は季村ではない。季村ではないことによって、季村は季村になる。「ある」という状態から「なる」という世界へ動いていく。
ことばの気迫。その、ことばの内部にある「気」はあふれだし、他者の「気」をあびて、そこに季村という「人間」をつくりあげる。季村はそういうことばをとおして、季村に「なる」。あたらしい人間に「なる」。
そして、この詩集には、その「なる」という運動がそのまま刻印されている。その「なる」という運動に、私は圧倒される。

季村のことばには「気迫」がある。「気」というのは、たぶん、そのひとの「内部」にとどまらない。ことばの場合だと、ことばを内部からはみ出していく、あふれていくものだと思う。--あふれてくるもの、ことば以上のものを感じるから「気迫」を感じると、私はわかったふりをして書いてしまうのだが、そのあふれた「気」はどうなるのだろう。「内部」からあふれてしまったものは、どうやって形を保つのだろう。「気」は、どうやって結晶するのだろう。
「夢の漣」。
枕もとに一艘、舟が近づき、霧笛を鳴らす。家にさざ波。海峡を見おろす庭に鳥が舞い、梢をゆらし降りていった。
電話があった。「ひたすら逃れました。町は死骸であふれていましたが、なぜか空は透き通っていました」。父の葬儀が済み、ほっとしていたひとときだった。「海峡にさしかかった瞬間、外地の記憶は貨物船から棄てました」。戦友だったという声。舟を漕ぐひとは、もうこの世にいない。
夢のなか、海を背にする。のぼりつめも向こう、坂道が光り、うねるようにつづく。風にまかせ、ここから先は、舞うように泳げばいい、そうおもうのだが、立ち止まったままのそこで、息があえぐ。見えない先の坂を転がり落ちていくものに逆らえない。だからなのか、たどりつけなかったひとびとのために置かれた石の叫びが、立ち止まった足にからみつく。
最初から3連目までを引用したが、この3連目は、いったいだれのことばなのだろう。だれの記憶なのだろう。父の記憶--父から聞かされた記憶なのか。それとも父の戦友の記憶なのか。あるいは、「私」(季村)の記憶なのか。
判然としない。
1連目の「舟」そのものも、いったいだれが見た舟なのかはっきりしない。それは季村の夢に出てきたのだから、季村の見た舟といってしまってもいいのかもしれないが、そこに父の記憶、戦友の記憶、それから父とともに生きた時代の多くのひとの記憶がまじりあっているように感じる。
季村のことばに、ことばを発することのないひとびとの叫びがからみついているように思える。
気迫のあることば--ことばからあふれた気は、いま、ここに、いないひとの、ことばにならなかった「気」とぶつかり、結晶して、だれのものでもないことば、だれのものでもありうることばになる。
「光庭--資料館で」。その書き出し。
ほのかに香る庭園。あたり一面、目に見えないしぶき。遠く、近く、蜜蜂の羽の音。どこからともなく、甘い蜜のしずく。ハミングするのはだれ、だれの記憶なのか。
ここに「だれ」が出てくる。それは「だれ」と書かれているが、「だれ」であるか、季村は知っている。「だれ」であると特定できないけれど、知っている。たとえば、父と戦友と、あるいは帰れなかったひとび……その「顔」は見えないけれど、動きが見えるひとたちである。
別の連。
資料館の外の庭園。みずをそそぐひとの姿は見えないが、窓ガラスに小さく、飛沫が浮かぶ。こびりつく脳漿。手に取る資料にも飛び散るものがある。収集された一枚いちまいをめくるとき、舞いあがるものがある。「ここには、難民生活を強いられた民間人の資料の一部が残されています。逃げまどう声、躯が潰れる音、その臭い、このような光景がなぜ起こったか、資料の解読は廃棄物の収集分別作業と同じです。腐っていく汚物を掻きまわすとき、なにを浴びることになのでしょうか。」
季村のことば、ことばからあふれた「気」は、他人のことばにならななかった「気」と出会う。資料館で。父の足跡ののこる場で。そして、多くのひとの「気」をあびながら、季村のことばの「気迫」はさらに充実していく。
そして、ことばは、だれのものでもなくなる。ここに書かれていることばはだれのものか。そんなことを問う必要はない。それは季村のことばであり、季村にそう語らさせた多くのひとのことばである。季村は、もう季村であることをやめてしまっている。
きのう読んだ伊藤比呂美が「私は私である」と書いていたが、季村は季村ではない。季村ではないことによって、季村は季村になる。「ある」という状態から「なる」という世界へ動いていく。
ことばの気迫。その、ことばの内部にある「気」はあふれだし、他者の「気」をあびて、そこに季村という「人間」をつくりあげる。季村はそういうことばをとおして、季村に「なる」。あたらしい人間に「なる」。
そして、この詩集には、その「なる」という運動がそのまま刻印されている。その「なる」という運動に、私は圧倒される。
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