尾久守侑『国境とJK』(思潮社、2016年11月30日発行)
尾久守侑『国境とJK』は何が書いてあるか、わからない。わからないけれど、気になるものがある。
「海街」の一連目。
「どこにいても辿り着いてしまう」。「いる」という「動詞」が「辿り着く」という「動詞」と結びついている。「学校文法」では「矛盾」(間違い)と指摘されるだろう。この「矛盾」した「動詞」の結びつきは、「海まで走る原付バイクに乗っていると/昔とおなじ街に暮らしている」という部分に逆の形で反復されている。「バイクに乗って走る(移動する)」と「おなじ街(動かない)に暮らしている(いる)」。
「矛盾」を「矛盾」ではなくする「動詞」は何だろう。「ただの気のせいだと思うには」の「思う」かもしれない。「思う」は「思い」という「名詞」に変化する。(「思い」は「思う」から派生した名詞と考えることができるだろう。)。「思い」は「気でもある」。
「動詞」以外にも「矛盾」というか、相反するものの結合がある。「青空」と「雨(空)」。ここには「見兼ねて」という「動詞」がからみついている。「見ることができない/見るに耐えない」。「できない/耐えない」は「気/思い」が「できない/耐えない」ということだろう。
「思い/気」が「矛盾」したものを強く結びつけている。「思い/気」というものが尾久守侑の「キーワード」なのだろうと思う。
だが、よくわからない。
「矛盾」、「矛盾」とは言えないかもしれないが「異質なものの結合」と呼べるいくつかの行(ことば)を読み進んで「コールドゲーム」という作品に出会う。この詩は尾久の作品のなかでは「矛盾」が目に留まらない作品と言える。
ここで、思わず「傍線」を引いたことばがある。
「みえなくて」と「みえない」。「思い/気」が「名詞(主語/テーマ)」のキーワードだとしたら、「みえない」は「動詞/述語」のキーワード。「思い」も「気」も「みえない」。「みえない」けれど「ある/存在している」。そういうものを書こうとしている。ことばの運動によって「みえない存在(ある)」をつかみ取ろうとしている。
魅力的な一行は、「すべての色素をうしなって、色素がみえなくなった(みえなくなったという気持ち、思いを抱きながら)歩く」ということになるだろう。
というのは、野球部(員)の「感じている/つかみとっている」朝の練習のときの「空」が「みえない」。おなじ「思い/気持ち」で朝の空をつかみきれないということか。「つかみきれない」は「認識できない」でもあるのだけれど、「認識」というよりもなにかあいまいな「思い/気分」の方が強い。
このあと「みえない」はもう一度出てくる。
この「みえなくなった」は「遠ざかった」という「意味」なので「ある」のに「みえない」というのとは違うのだが、この微妙な「違い」がキーワードをみえにくくしているのがおもしろいと思った。無意識のうちにキーワードを隠してしまうのかもしれない。一種の「本能」。大事なものは、ほんとうに必要なときにしか出てこない。言い換えのできないときにだけ「ことば」として動き、言い換えができるときは隠れてしまう。キーワードとは、そういうものだと私は思っている。
この「みえない」「思い/気」は最終連で、また言いなおされている。
「透明」は「みえない」。「透明」は尾久のキーワードを結晶させる「象徴」である。「透明」へ向けて尾久のことばは動く。
そこに「ある」のに「みえない」。「みえない」を「みえる」にかえるためには、尾久のことばがそこに「ある」ものよりもさらに「透明」になる。
「つめたい雨のふる」空は「透明」ではない。しかし、それを「一瞬で/透明」に「する」。尾久は「透明になった」と書いているが、尾久が「透明」に「する」。
「透明」「みる/みえない」は、多くの詩に書き残されている。詩集のタイトルになっている「国境とJK」には少し違った形に言いなおされている。
「答えがみえない」。「透明」は「鉛筆で塗りつぶす」という逆のことばで浮かび上がってくる。「黒」の反対側に「透明」がある。
「皺一つない」の「ない」も「みえない」。「おしえてくれなくて」の「なくて」も「みえない」。「顔のないせんせい」の「ない」も「みえない」。そこには「不透明」も含まれるのだが、尾久は「不透明」も「思い/気」をくぐらせることで「透明」に濾過してしまう。尾久の「透明な(純粋な)思い/気」があらゆめる存在を「透明」にかえて、詩に結晶させる。
私の読み方は強引すぎて「誤読」にしかならないのだが。
「ナショナルセンター」には次のことばがある。
灰色の雨空を見る。その「見た」ものの影で「泣いていたさやかさん」が「透明」になっていく。名色の空を見ることが「泣いていたさやかさん」を「透明」に「する」。「さやかさん」を「透明にする」のか「泣いていた」ということを「透明にする」のか。区別できない美しさが、青春の透明さというものかもしれない。
尾久守侑『国境とJK』は何が書いてあるか、わからない。わからないけれど、気になるものがある。
「海街」の一連目。
どこにいても辿り着いてしまう
青空を見兼ねて、やって来た
アイランド
海まで走る原付バイクに乗っていると
昔とおなじ街に暮らしている瞬間が
何度かあって、それも
ただの気のせいだと思うには
雨が多すぎた
「どこにいても辿り着いてしまう」。「いる」という「動詞」が「辿り着く」という「動詞」と結びついている。「学校文法」では「矛盾」(間違い)と指摘されるだろう。この「矛盾」した「動詞」の結びつきは、「海まで走る原付バイクに乗っていると/昔とおなじ街に暮らしている」という部分に逆の形で反復されている。「バイクに乗って走る(移動する)」と「おなじ街(動かない)に暮らしている(いる)」。
「矛盾」を「矛盾」ではなくする「動詞」は何だろう。「ただの気のせいだと思うには」の「思う」かもしれない。「思う」は「思い」という「名詞」に変化する。(「思い」は「思う」から派生した名詞と考えることができるだろう。)。「思い」は「気でもある」。
どこにいても(思いは/気は)辿り着いてしまう
海まで走る原付バイクに乗っていると
昔とおなじ街に暮らしている(思う)瞬間が
何度かあって
「動詞」以外にも「矛盾」というか、相反するものの結合がある。「青空」と「雨(空)」。ここには「見兼ねて」という「動詞」がからみついている。「見ることができない/見るに耐えない」。「できない/耐えない」は「気/思い」が「できない/耐えない」ということだろう。
「思い/気」が「矛盾」したものを強く結びつけている。「思い/気」というものが尾久守侑の「キーワード」なのだろうと思う。
だが、よくわからない。
あれから毎日
晴れているのに雨がふる (「海街」)
つめたいラジオから (「ぼくの海流に雪はつもる」)
「矛盾」、「矛盾」とは言えないかもしれないが「異質なものの結合」と呼べるいくつかの行(ことば)を読み進んで「コールドゲーム」という作品に出会う。この詩は尾久の作品のなかでは「矛盾」が目に留まらない作品と言える。
ここで、思わず「傍線」を引いたことばがある。
すべての色素を失って歩く
国道から校舎への
三百メートル
Yシャツの袖をまくって
紺の手提げカバンを
肩にかけて追い抜いていく野球部の
朝練の空
それが僕にはみえなくて
とったばかりの
二輪の免許で
かたちの変わる海岸線を走った
「みえなくて」と「みえない」。「思い/気」が「名詞(主語/テーマ)」のキーワードだとしたら、「みえない」は「動詞/述語」のキーワード。「思い」も「気」も「みえない」。「みえない」けれど「ある/存在している」。そういうものを書こうとしている。ことばの運動によって「みえない存在(ある)」をつかみ取ろうとしている。
すべての色素を失って歩く
魅力的な一行は、「すべての色素をうしなって、色素がみえなくなった(みえなくなったという気持ち、思いを抱きながら)歩く」ということになるだろう。
肩にかけて追い抜いていく野球部の
朝練の空
それが僕にはみえなくて
というのは、野球部(員)の「感じている/つかみとっている」朝の練習のときの「空」が「みえない」。おなじ「思い/気持ち」で朝の空をつかみきれないということか。「つかみきれない」は「認識できない」でもあるのだけれど、「認識」というよりもなにかあいまいな「思い/気分」の方が強い。
このあと「みえない」はもう一度出てくる。
卒業まであと 日
破り去られた数字のなかに
僕はいきていた
うしろから
勢いよく肩を叩いたきみの
たぶん、北のほうの訛りと
お気に入りの
水玉のワンピースが
ゆらゆらと揺曳して
みえなくなった
この「みえなくなった」は「遠ざかった」という「意味」なので「ある」のに「みえない」というのとは違うのだが、この微妙な「違い」がキーワードをみえにくくしているのがおもしろいと思った。無意識のうちにキーワードを隠してしまうのかもしれない。一種の「本能」。大事なものは、ほんとうに必要なときにしか出てこない。言い換えのできないときにだけ「ことば」として動き、言い換えができるときは隠れてしまう。キーワードとは、そういうものだと私は思っている。
この「みえない」「思い/気」は最終連で、また言いなおされている。
大小のテレビにうつった
高校野球
アップになった
不甲斐ないエースの顔は
紛れもない僕だった
つめたい雨のふる外野席
コールド負け寸前の僕を応援する
夏服のきみがいた
水玉と
クリームソーダの季節
アンパイアの掛け声で
黒焦げのグローブを
ぐっと握りしめると
空が一瞬で
透明になった
「透明」は「みえない」。「透明」は尾久のキーワードを結晶させる「象徴」である。「透明」へ向けて尾久のことばは動く。
そこに「ある」のに「みえない」。「みえない」を「みえる」にかえるためには、尾久のことばがそこに「ある」ものよりもさらに「透明」になる。
「つめたい雨のふる」空は「透明」ではない。しかし、それを「一瞬で/透明」に「する」。尾久は「透明になった」と書いているが、尾久が「透明」に「する」。
「透明」「みる/みえない」は、多くの詩に書き残されている。詩集のタイトルになっている「国境とJK」には少し違った形に言いなおされている。
先の丸まった鉛筆で
マークシートを塗りつぶす
答えはどこにあるのだろうか
「答えがみえない」。「透明」は「鉛筆で塗りつぶす」という逆のことばで浮かび上がってくる。「黒」の反対側に「透明」がある。
いつもの教室
皺一つないチェックのスカート
だれとメールしているのか
おしえてくれなくて
そう、顔のないせんせいが云ったのだ
「皺一つない」の「ない」も「みえない」。「おしえてくれなくて」の「なくて」も「みえない」。「顔のないせんせい」の「ない」も「みえない」。そこには「不透明」も含まれるのだが、尾久は「不透明」も「思い/気」をくぐらせることで「透明」に濾過してしまう。尾久の「透明な(純粋な)思い/気」があらゆめる存在を「透明」にかえて、詩に結晶させる。
私の読み方は強引すぎて「誤読」にしかならないのだが。
「ナショナルセンター」には次のことばがある。
どしゃぶりのハチ公前から、TSUTAYAにむかって歩いていくさやかさん。よくみると泣いていた。空が灰色だった。考えてみれば雨の日にあまり空は見ない。
灰色の雨空を見る。その「見た」ものの影で「泣いていたさやかさん」が「透明」になっていく。名色の空を見ることが「泣いていたさやかさん」を「透明」に「する」。「さやかさん」を「透明にする」のか「泣いていた」ということを「透明にする」のか。区別できない美しさが、青春の透明さというものかもしれない。
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