吉増剛造「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」(「現代詩手帖」2010年12月号)
私は音痴である。どれくらい音痴かというと、人が歌っているのを聞いて、それを再現できない。どの高さの(どの位置の?)音を出しているのかわからないので、自分で再現できない。楽譜を見ながらなら、あ、これはこの音なのかと高さを確認できる。では楽譜が読めるのかとなると、これも無理。楽譜を見たって、それを自分では再現できない。人がそれを歌うのを聞いて、あ、これは声にするとこんなふうになるのか、とわかる程度である。ひとが歌うとき、そのメロディーを自分に歌いやすいように高さをかえることがあるが(キーをかえるというのかな?)、そういう歌を聴くと、もう楽譜がわからなくなる。完璧な音痴である。
ことばではそんなことは起きない。まあ、ときどきは勘違いするけれど、ひとの話したことは一応そのまま反復できる。書き取ることができる。書かれたものを読み、それを声に出して読むことはできる。(カタカナは除く。)声に出さなくても、自然に「肉体」が動いている。喉が動いているし、耳も動いている。黙読の場合でも、私は、ときどきひどく喉がつかれるときがある。(書いているときも、ときどきつかれる。)
そして、私の場合、ことばを読むとき、そこに「音」が聞こえないと、何が書いてあるさっぱりわからない。私は「音痴」のくせに、ことばだけは「音」なしではおもしろいともなんとも感じないのである。
なぜこんなことをくだくだと書いているかというと……。
私は吉増剛造の詩がまったくわからないのである。読めないのである。「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」の書き出し。
これは読むことができる。「音」が聞こえる。ところが、その冒頭の1行につづいて、詩は突然活字の大きさを変えて、次のようにつづく。(私の表記は、同じ活字の大きさになってしまうが、本文は小さい活字である。--「現代詩手帖」で確かめてください。)
どう読めばいいのだろう。転写して見ると読むことはできるが、本の形のままでは、私には見当がつかない。文字が小さいから、「音」も小さいのか。文字がびっしり詰まっているから、そのリズムは1行目より速いのか。
他のひとは、どんな感じで「音」を受け止めているのだろうか。
注として、私はルビのことを書いたが、ルビの問題もよくわからない。
2連目の2行目。
「古里」の読み方は括弧内にいれて説明し、「神さびた」はルビ。このとき「音」はどうなるのだろうか。読むリズムは?
「楽譜」のリズム、音の強弱は、まあ、作者の指定もあるだろうけれど、それは演奏家(歌い手)の好みでかえてもいいものだろう。ことばを「読む」ときも、そのリズム、音の強弱などは読者のかってだろうけれど、吉増の詩のように、活字の大きさや、読み方の表記の仕方、さらには活字の汲み方、いくつもの表記記号のつかいわけ、さらには外国語までまじってくると、これはほんとうに、まったくわからない。お手上げである。
私は朗読というものをほとんど聞いたことがない。吉増の朗読はもちろん聞いたことがない。吉増の声すら知らない。吉増の朗読を聞けば、この詩の読み方はわかるかもしれないが、聞いてもすぐにはその「読み方」を自分のものとして再現できるかなあ。わからない。
それに、私は、文学というのは、作者の指定した読み方ではなく、読者がかってに読んでいいものと思っているから、読み方を作者に指定されたくはない。
だったら、吉増がどんな表記の仕方をしていようが、勝手に読めば--ということになるかもしれないが、それはちょっと違う。
たとえば、きのう読んだ粕谷栄市の作品。それを私はかってに「誤読」しているが、粕谷の作品にはどんな指定もない。句読点や改行はあるが、活字の大きさに変化はない。同じものとして書かれているものを、私はかってに、ここがおもしろいと選び出して感想を書いている。吉増の詩の場合は、そういう「かって」ができない。表記が、ことばに一定の「枠」を与えている。その「枠」に邪魔されて、ことばが「音」にならない。そうすると、ことばは「肉体」に入ってこない。

私は音痴である。どれくらい音痴かというと、人が歌っているのを聞いて、それを再現できない。どの高さの(どの位置の?)音を出しているのかわからないので、自分で再現できない。楽譜を見ながらなら、あ、これはこの音なのかと高さを確認できる。では楽譜が読めるのかとなると、これも無理。楽譜を見たって、それを自分では再現できない。人がそれを歌うのを聞いて、あ、これは声にするとこんなふうになるのか、とわかる程度である。ひとが歌うとき、そのメロディーを自分に歌いやすいように高さをかえることがあるが(キーをかえるというのかな?)、そういう歌を聴くと、もう楽譜がわからなくなる。完璧な音痴である。
ことばではそんなことは起きない。まあ、ときどきは勘違いするけれど、ひとの話したことは一応そのまま反復できる。書き取ることができる。書かれたものを読み、それを声に出して読むことはできる。(カタカナは除く。)声に出さなくても、自然に「肉体」が動いている。喉が動いているし、耳も動いている。黙読の場合でも、私は、ときどきひどく喉がつかれるときがある。(書いているときも、ときどきつかれる。)
そして、私の場合、ことばを読むとき、そこに「音」が聞こえないと、何が書いてあるさっぱりわからない。私は「音痴」のくせに、ことばだけは「音」なしではおもしろいともなんとも感じないのである。
なぜこんなことをくだくだと書いているかというと……。
私は吉増剛造の詩がまったくわからないのである。読めないのである。「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」の書き出し。
棘(とげ)が人生の小川をぎっしりと流れている
これは読むことができる。「音」が聞こえる。ところが、その冒頭の1行につづいて、詩は突然活字の大きさを変えて、次のようにつづく。(私の表記は、同じ活字の大きさになってしまうが、本文は小さい活字である。--「現代詩手帖」で確かめてください。)
07.3. 29島尾ミホさんの急逝に逢い、こころは行触れ-----そこまで
行って触ってきたように、
(谷内注・「行触れ」には「いきぶ(れ)」のルビ、
「触って」には「さわ(って)」のルビ)
どう読めばいいのだろう。転写して見ると読むことはできるが、本の形のままでは、私には見当がつかない。文字が小さいから、「音」も小さいのか。文字がびっしり詰まっているから、そのリズムは1行目より速いのか。
他のひとは、どんな感じで「音」を受け止めているのだろうか。
注として、私はルビのことを書いたが、ルビの問題もよくわからない。
2連目の2行目。
小川は、まだお元気だったころにミホさんが古里(ふるさと)加計呂麻
の、……少し、神さびたような山蔭で、
(谷内注・「神さびた」には「かん(さびた)」のルビ)
「古里」の読み方は括弧内にいれて説明し、「神さびた」はルビ。このとき「音」はどうなるのだろうか。読むリズムは?
「楽譜」のリズム、音の強弱は、まあ、作者の指定もあるだろうけれど、それは演奏家(歌い手)の好みでかえてもいいものだろう。ことばを「読む」ときも、そのリズム、音の強弱などは読者のかってだろうけれど、吉増の詩のように、活字の大きさや、読み方の表記の仕方、さらには活字の汲み方、いくつもの表記記号のつかいわけ、さらには外国語までまじってくると、これはほんとうに、まったくわからない。お手上げである。
私は朗読というものをほとんど聞いたことがない。吉増の朗読はもちろん聞いたことがない。吉増の声すら知らない。吉増の朗読を聞けば、この詩の読み方はわかるかもしれないが、聞いてもすぐにはその「読み方」を自分のものとして再現できるかなあ。わからない。
それに、私は、文学というのは、作者の指定した読み方ではなく、読者がかってに読んでいいものと思っているから、読み方を作者に指定されたくはない。
だったら、吉増がどんな表記の仕方をしていようが、勝手に読めば--ということになるかもしれないが、それはちょっと違う。
たとえば、きのう読んだ粕谷栄市の作品。それを私はかってに「誤読」しているが、粕谷の作品にはどんな指定もない。句読点や改行はあるが、活字の大きさに変化はない。同じものとして書かれているものを、私はかってに、ここがおもしろいと選び出して感想を書いている。吉増の詩の場合は、そういう「かって」ができない。表記が、ことばに一定の「枠」を与えている。その「枠」に邪魔されて、ことばが「音」にならない。そうすると、ことばは「肉体」に入ってこない。
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吉増 剛造 | |
角川春樹事務所 |

楽しめないと言ったほうが適切だと思います。
とりわけ、割注をされるようになってから
吉増さんの書いてられる作品に
脅迫神経症的なものを強く感じます。
おそらく多くの文学者に強迫神経症的なところがあると思いますが
読み手をも脅迫神経症にさせるような作品には
大いに疑問を感じております。
60年代、70年代の吉増さんとは違う吉増さんなのでしょうね、きっと。
現代という時代が強迫神経症的であるからこそ
読み手のこころを解きほぐすような作品に出合いたいと思っています。
私は60年代、70年代の吉増は読んでいました。
名前と関係するかどうかわからないけれど、剛直な感じが好きでした。
いまは字の大きさが違っていたり、組み方が複雑だったり。
私は眼が悪いので、小さい文字が特につらいなあ。