詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋優子「繊い糸」

2015-09-30 10:23:09 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋優子「繊い糸」(「poisson」39、2015年10月発行)

 私は、前に読んだ作品をひきずりながら読んでしまう。違う人の作品を読んでも、直前に読んだ作品の印象が残っていて、その印象とつながる部分を読んでしまう。
 森谷敬「沈丁花の……」につづけて、高橋優子「繊い糸」を読んだ。そうすると、ことばとことばの接続の仕方(呼応の仕方)が似ているように感じてしまう。これは、私が「似た部分」を探して読んでしまうということなのかもしれないけれど。

 遠ざかりながら繰り返される言葉に、もうたしかな意
味は消えかかり、むしろ声、吹きすぎる風のような響き
と抑揚に、言いしれぬ懐かしさがからみ合っていた。流
れよる余韻。その薄っすらとからみあうものに耳を傾け、
はるかな記憶の影に追い縋り、あなたを縫いとめる。

 「言いしれぬ懐かしさ」とか「流れよる余韻」とか。そこに、あるイメージ(すでに読んできた文学的イメージ)を書こうとする熱意(文学嗜好)を強く感じる。そして、それが強すぎて、具体的な「手触り(実感)」がない。
 いや、しかし、これは逆に読んだ方がいいのだ。
 高橋は(あるいは森谷は)、具体的な存在を書くというよりも、「文学嗜好」そのものを「文学」にしようとしているのだ。書きたいのは、「私はこんなに文学(ことば)が好き」という熱意なのだ。
 書き出し。
 「言葉」は「遠ざかる」と同時に「繰り返される」。遠ざかることが「目的」ならば、繰り返す必要はない。繰り返すのは、遠ざかるとは逆のことをしたいのだ。いつまでも、そこにとどまりたい。そこにとどまることができないなら、「記憶」を残したい。欲望。そのために繰り返す。
 繰り返しつづけていると、「言葉」から「意味」が消え、「繰り返す」という運動だけが残る。そこには、そこにとどまりたいという「欲望/意識」だけがからみついている。「意識」しか見えない。
 「未練」と言い換えると、わかりやすくなるかもしれない。
 「記憶を残したい/とどまりたい」という欲望は「意識」(精神の運動)というよりも「感情」(感情の運動)である。情念である。情念になることで「本能」にもどる。
 だから「からみあう」「追い縋る」。そして「感情」で、「縫い/とめる」。
 「遠ざかりながら繰り返す」ということばにもう一度もどると、ここには「迂回」がある。「わざと」がある。まっすぐに去っていくのではない。「わざと」時間をかけるのである。それは「時間」をゆっくり動かす。自分自身の「感情」をゆっくり動かし、その感情の動きを自分で味わうということでもある。

 
もうたしかな意味は消えかかり、

 この短い「文」を取り出してみつめるだけでも、「感情」がいかに「時間」をかけて動こうとしているかがわかる。「もう」も「たしかな」もなくても「意味」が「消える」という運動に変化はない(とは、いえないしもしれないが)。「もう」も「たしかな」も絶対的な動詞(消える)の前では不要なものである。けれど、その不要な「もう」と「たしかな」という「こだわり」を高橋は書きたいのだ。
 「意味」ではなく、その「意味」のまわりで動いている「感情/情念」を「ゆっくり」と描く。
 高橋は(そして、たぶん多くの批評家も)、私が書いている「ゆっくり」を「ゆっくり」とは書かずに「繊細に」と呼ぶと思うけれど。
 「繊細に」ということばをつかった方が、たしかに高橋の詩にはふさわしいかもしれない。けれど、私は「ゆっくり」といいたい。「ゆっくり」の方が「時間」をあらわし、「運動」の変化を伝えられると思う。また「センチメンタル」に陥らずにすむと思うからである。
 高橋の作品を「繊細な抒情」と呼んでしまえば、それは「センチメンタル」の「枠」のなかに収まってしまって、おもしろくない。「熱意」がわからなくなる。
 
 降りしきる雪のなかの、互いの膝に滴った薄青いしず
く。冷たさに潜む樹々の、微かなきしみ。そうして繁み
の陰で寄りそいあう牡鹿たちの、暗い瞬き。(放たれる
声にも似た瞬きを、不意に混濁した私は、とらえきれな
いまま)

 「薄青い」「微かな」「暗い」ということばは、「陰」にも通い合えば「とらえきれない」にも通い合う。「互いの膝」は「寄りそう」に通い合う。しっかり「文学の定理」を反芻している。
 「潜む」は「陰」や「暗い」に通い合うと同時に、「放たれる」という逆の意味のことばとも通い合う。矛盾することで、そこに濃密な運動を抱き込む。これは書き出しの「遠ざかりながら繰り返される」という運動に似ている。
 矛盾を含むことで、「意味」は消え、「意味」を消していく「情感」というものだけが「混濁した私」の「うわずみ」のように悲しく残る。
 それを「繊細」と呼ぶのではなく、「繊細」ということば(批評)を拒絶して、「混濁」が「透明」になるまでの「時間」を「ゆっくり」味わう。その「時間」に重なる「文学のことばの連続(歴史)」を思い出す。
 そんなふうに読む詩だと思った。
 この詩にも、いわゆる「現代」はない。「現代」があるとしたら、「文学を読んでできた」という「過去」と向き合う形であらわれる「現代」がある。



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