竹田朔歩『鳥が啼くか π』(2)(書肆山田、2010年04月05日発行)
竹田朔歩のことばは、私には、女のことばとして響いて来ない。もしかすると私が女っぽ過ぎるのかもしれない。竹田に男を感じてしまう。
「わが懐妊 鷲が目撃したあと」の部分だが、ここに書かれていることばと「肉体」の関係が私にはわからない。竹田にとって、ことばは、肉体とは別のところにあるのかもしれない。--そして、私が「男」を感じるのは、それが男の書いたものであれ、女が書いたものであれ、そういう瞬間である。
肉体の不在。肉体がなくても、ことばは存在する。
--こういう「哲学」がどこからやってきたのか、あるいはどうやって生まれてきたのか、私にはまったくわからないのだが、そういうものの前で私は、なんとなく拒絶された感じを持ってしまう。ことばから、というよりも、そういうことばを動かすひとから拒絶されたと感じてしまう。
そういう拒絶をいやだなあと感じてしまうのは、私が女っぽいせいなのか、それとも私のなかの男っぽさが対抗意識をもつためなのか--それが私には、よくわからない。
そして、矛盾したことを書いてしまうようだけれど、そうした竹田のことばに一種のいやなものを感じながら、私は、またある部分で竹田のことばに惹かれもする。
少し視点をかえて、私の考えていることを整理し直してみる。
どうして、竹田の書いているようなことばが存在するのか。肉体とは無縁なことばが存在するのか--そう考えたとき、私は、いつものようにというか、とんでもない「誤読」へ突き進んでしまう。
竹田のことばは、その「意味」のうえでは肉体とは結びつかない。けれど、どんなことばでも必ず肉体を通らないと存在しない。
「聴くことは」と竹田は書いているが、その「聴く」。聴覚。音。ことばは、ことばになるとき、「音」とともにある。耳、喉に障害があり、音を獲得したり、発声したりできないひとにとって、それではことばは存在しないのか--と、問われてしまうと、私は答えようがないのだが、私にとっては、ことばと肉体は、どんなときでも「音」を媒介にして接触する。黙読し、声に出さない場合でも、音が必ず存在している。そして、声をださなくても、肉体の内部で喉が動いている。本を読むと、私は喉が枯れる。水が飲みたくなる。
そして、竹田のことばは、「意味」としては肉体と結びつかないが、「音」としては私の肉体ととてもよくなじむ。「音」そのものは肉体をとおってきている、と実感できる。竹田は、ことばを「音」として把握している--と感じることができる。同時にまた、その「音」を「視」(力)に瞬時の内にかえている。「音」を「文字」にかえている、ということを感じる。「音」が肉体をとおることによって、耳だけではなく、目も通過し(五感は人間の肉体のなかで結びついているからね)、「音」から「文字」にかわる。
「増殖」「重力」「非在」「非」。そして「知」。竹田は「知る」と書いているが、「知ることは はげしい非である」という1行を読むと、その行では「知(ち)」と「非(ひ)」が独立して響きあっているのを感じてしまうのである。
竹田にとって、ことばとは「音」であり、「文字」なのだ。ことばを「音」から「文字」にかえるために、「肉体」が存在している。
そこには、たしかに、「肉体」がある。
あ、このことば、音、文字、肉体の関係は、うーん、見当で言ってしまうが「禅」の精神に通じているように、私には思える。
竹田には『サム・フランシスのにんま』(にんま、というのは感じで書かれているが、ワープロでは出てこないので、ひらがなにした)という詩集がある。その「にんま」というのは、聞きかじり私の「知識」(実感ではない)では、たしか「禅」のことばである。禅宗のお坊さんが、その、わけのわからないことばを話していたのを聞いたことがある。意味を聞いたが、禅のことなので、ことばにはならない。
で、(と、突然、話をもとに戻すのだが)そうした「禅」の「肉体」とことばの関係のようなもの、そのあり方に私はなんとなく惹かれるものを感じる。禅など勉強したことがないし、何年か前に、お坊さんに聞いたことをちょっと思い出すくらいなのだが、きっとそういう「精神」は日本人の肉体のなかにひそんでいて、それが共鳴する。
竹田の肉体と私の肉体は、そういう部分でなにか共鳴する。そこに惹かれるのだと思う。
あ、なんだか、わけのわからないことを書いているなあ--と思うけれど、まあ、私の書いているのは「日記」だからね。思いつくまま、だからね。そう思って、もう少しおつきあいしてね。(もう少し、「でたらめ」を書きます、という意味です。)
「わが懐妊 鷲が目撃したあと」の冒頭。
私は、この部分がとても好きだ。
「ふ・う・せ・ん・と・う・わ・た」とは竹田の注釈によれば「フウセントウワタ」であり、アフリカ原産の木。柳葉、白い花。実は丸くてやわらかい。その「フウセントウワタ」をまず「音」そのものとして竹田の肉体はのみこんでいる。「意味」を重視するなら、「フウセントウワタ」は「フウセン(やわらかい)」「トウ(もつ)」「ワタ(実)」かもしれない。(あ、直訳日本語はでたらめに書いている部分だから、信じちゃダメだよ。)けれど、そういう「意味」ではなく、「音」そのものとして、しかも「ひらがな」の音として肉体に取り込む。
そうすると、ここに在る「白い?やわらかい実」が、ここに非在の「うすみどりの」「やわらかい」「魚卵」となって見えてくる。「言葉という身体」(ことばの身体--その音の響き、と私は、強引に「誤読」する)が「私」という「人間」の「肉体」のなかを通過するとき、それは「耳」だけではなく、目を刺激する。そして、その記憶が形となって見えてくる。
その変化。
その変化は、まだ形の定まっていない「いのち」そのものを源流にふれて起きることである。何も形がきまっていないどこか(それこそ非在でありながら、存在している場)をとおって、「形」を生み出す。「意味」を生み出す。
その生み出すという運動。
竹田のことばは、私には、そういう運動に感じられる。そういう感じが伝わってくる部分に、私はとても強く惹きつけられる。
でもね。と、私は、やっぱり書いてしまう。こういうことばの運動というのは、私には、どうも男の専売特許のような感じがするのだ。男はなんといっても子どもを産むことができない。男が産めるのは、ことばだけなんだなあ。「禅」というのは、「いのち」そのものを産めない男がつくりだした、世界の「出産装置」という感じがする。
そういう「男の専売特許」にまで女性が進出しはじめている。その先頭を切っているのが竹田ということなのかもしれないけれど、うーん、女っぽくないなあ。
竹田朔歩のことばは、私には、女のことばとして響いて来ない。もしかすると私が女っぽ過ぎるのかもしれない。竹田に男を感じてしまう。
予感の河は 増殖しつづけ 重力によって 時がたわみ
この身がここに在るから 非在の熱にうかされ
アフリカの国境線はだれが引いたのだろうか
知ることは はげしく非であり
聴くことは 両刃の五感なのだ
「わが懐妊 鷲が目撃したあと」の部分だが、ここに書かれていることばと「肉体」の関係が私にはわからない。竹田にとって、ことばは、肉体とは別のところにあるのかもしれない。--そして、私が「男」を感じるのは、それが男の書いたものであれ、女が書いたものであれ、そういう瞬間である。
肉体の不在。肉体がなくても、ことばは存在する。
--こういう「哲学」がどこからやってきたのか、あるいはどうやって生まれてきたのか、私にはまったくわからないのだが、そういうものの前で私は、なんとなく拒絶された感じを持ってしまう。ことばから、というよりも、そういうことばを動かすひとから拒絶されたと感じてしまう。
そういう拒絶をいやだなあと感じてしまうのは、私が女っぽいせいなのか、それとも私のなかの男っぽさが対抗意識をもつためなのか--それが私には、よくわからない。
そして、矛盾したことを書いてしまうようだけれど、そうした竹田のことばに一種のいやなものを感じながら、私は、またある部分で竹田のことばに惹かれもする。
少し視点をかえて、私の考えていることを整理し直してみる。
どうして、竹田の書いているようなことばが存在するのか。肉体とは無縁なことばが存在するのか--そう考えたとき、私は、いつものようにというか、とんでもない「誤読」へ突き進んでしまう。
竹田のことばは、その「意味」のうえでは肉体とは結びつかない。けれど、どんなことばでも必ず肉体を通らないと存在しない。
「聴くことは」と竹田は書いているが、その「聴く」。聴覚。音。ことばは、ことばになるとき、「音」とともにある。耳、喉に障害があり、音を獲得したり、発声したりできないひとにとって、それではことばは存在しないのか--と、問われてしまうと、私は答えようがないのだが、私にとっては、ことばと肉体は、どんなときでも「音」を媒介にして接触する。黙読し、声に出さない場合でも、音が必ず存在している。そして、声をださなくても、肉体の内部で喉が動いている。本を読むと、私は喉が枯れる。水が飲みたくなる。
そして、竹田のことばは、「意味」としては肉体と結びつかないが、「音」としては私の肉体ととてもよくなじむ。「音」そのものは肉体をとおってきている、と実感できる。竹田は、ことばを「音」として把握している--と感じることができる。同時にまた、その「音」を「視」(力)に瞬時の内にかえている。「音」を「文字」にかえている、ということを感じる。「音」が肉体をとおることによって、耳だけではなく、目も通過し(五感は人間の肉体のなかで結びついているからね)、「音」から「文字」にかわる。
「増殖」「重力」「非在」「非」。そして「知」。竹田は「知る」と書いているが、「知ることは はげしい非である」という1行を読むと、その行では「知(ち)」と「非(ひ)」が独立して響きあっているのを感じてしまうのである。
竹田にとって、ことばとは「音」であり、「文字」なのだ。ことばを「音」から「文字」にかえるために、「肉体」が存在している。
そこには、たしかに、「肉体」がある。
あ、このことば、音、文字、肉体の関係は、うーん、見当で言ってしまうが「禅」の精神に通じているように、私には思える。
竹田には『サム・フランシスのにんま』(にんま、というのは感じで書かれているが、ワープロでは出てこないので、ひらがなにした)という詩集がある。その「にんま」というのは、聞きかじり私の「知識」(実感ではない)では、たしか「禅」のことばである。禅宗のお坊さんが、その、わけのわからないことばを話していたのを聞いたことがある。意味を聞いたが、禅のことなので、ことばにはならない。
で、(と、突然、話をもとに戻すのだが)そうした「禅」の「肉体」とことばの関係のようなもの、そのあり方に私はなんとなく惹かれるものを感じる。禅など勉強したことがないし、何年か前に、お坊さんに聞いたことをちょっと思い出すくらいなのだが、きっとそういう「精神」は日本人の肉体のなかにひそんでいて、それが共鳴する。
竹田の肉体と私の肉体は、そういう部分でなにか共鳴する。そこに惹かれるのだと思う。
あ、なんだか、わけのわからないことを書いているなあ--と思うけれど、まあ、私の書いているのは「日記」だからね。思いつくまま、だからね。そう思って、もう少しおつきあいしてね。(もう少し、「でたらめ」を書きます、という意味です。)
「わが懐妊 鷲が目撃したあと」の冒頭。
サクサクと
茂れる夜には
ふ・う・せ・ん・と・う・わ・たが 潜んでいる
この身がここに在るから 非在の
うすみどりの 魚卵を
やわらかい 水のヴェールでくるんで
言葉という身体を 生のまま のみ込んでいこうとする
生き物を 遡る
私は、この部分がとても好きだ。
「ふ・う・せ・ん・と・う・わ・た」とは竹田の注釈によれば「フウセントウワタ」であり、アフリカ原産の木。柳葉、白い花。実は丸くてやわらかい。その「フウセントウワタ」をまず「音」そのものとして竹田の肉体はのみこんでいる。「意味」を重視するなら、「フウセントウワタ」は「フウセン(やわらかい)」「トウ(もつ)」「ワタ(実)」かもしれない。(あ、直訳日本語はでたらめに書いている部分だから、信じちゃダメだよ。)けれど、そういう「意味」ではなく、「音」そのものとして、しかも「ひらがな」の音として肉体に取り込む。
そうすると、ここに在る「白い?やわらかい実」が、ここに非在の「うすみどりの」「やわらかい」「魚卵」となって見えてくる。「言葉という身体」(ことばの身体--その音の響き、と私は、強引に「誤読」する)が「私」という「人間」の「肉体」のなかを通過するとき、それは「耳」だけではなく、目を刺激する。そして、その記憶が形となって見えてくる。
その変化。
その変化は、まだ形の定まっていない「いのち」そのものを源流にふれて起きることである。何も形がきまっていないどこか(それこそ非在でありながら、存在している場)をとおって、「形」を生み出す。「意味」を生み出す。
その生み出すという運動。
竹田のことばは、私には、そういう運動に感じられる。そういう感じが伝わってくる部分に、私はとても強く惹きつけられる。
でもね。と、私は、やっぱり書いてしまう。こういうことばの運動というのは、私には、どうも男の専売特許のような感じがするのだ。男はなんといっても子どもを産むことができない。男が産めるのは、ことばだけなんだなあ。「禅」というのは、「いのち」そのものを産めない男がつくりだした、世界の「出産装置」という感じがする。
そういう「男の専売特許」にまで女性が進出しはじめている。その先頭を切っているのが竹田ということなのかもしれないけれど、うーん、女っぽくないなあ。
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