砂田麻美監督「エンディングノート」(★★★★★)
監督 砂田麻美 出演 砂田知昭
癌を告知された「日本のお父さん(企業戦士の営業マン)」が死ぬまでを、営業マンらしくスケジュールどおりに生きていく姿をとらえている。すべて計画を立て、そのひとつひとつを実行していく。その結果として死がある。
--というストーリーがどうでもいいというわけではないが。
いやあ、映画というのは「編集」がいのちだねえ。私は映画をつくっているわけではないのだが、感激してしまった。たとえば銀杏並木があって、その映像が無音のまましばらくつづく。そこへ遅れて音楽がかぶさる。なんでもないシーンなのだが、そうだよなあ、ある風景に出会って感動して、その瞬間に音楽が肉体の内部から鳴り響くということはないなあ。美しい風景に肉体がどう反応していいかわからない。しばらくして、やっと肉体が追いつく--そして音楽が聴こえてくる。
すべてがそういうものだと思う。
どんな感動的なシーンでも、瞬間的に肉体が反応するわけではない。次に何が起きるかわかっていても、すぐに肉体が反応するわけではない。わかっていればわかっているほど肉体は反応するまいとかまえる。たとえば、お父さんがお母さんに最期のわかれを言う。お母さんが「いっしょに行きたい」と言う。予告編でも何度も見たシーン。どうなるか、わかっている。そしてわかっているから、私の肉体は身構える。涙を流すまい、泣くまい、とする。その肉体をこじ開けるようにして感情がやっぱり動いてしまう。そして、その頑固な肉体をこじ開け、感情が新しい肉体になるまでの時間--その間合い。遅れてくる真実。こういう時間の動き、肉体の動きを、この映画はとても自然な呼吸、自然なリズムで再現している。
間がいいのだ。そして、この間は編集によってつくりだされるのだ。
古いホームビデオのなかに残っていたお父さんとお母さんの夫婦喧嘩のシーンはその典型だ。「おれは会社で一生懸命働いているんだ。酒ぐらい呑んで帰るさ」というような典型的な夫婦喧嘩。そのときお父さんの膝の上に犬がいる。まったく動かない。ぬいぐるみの置物のようだが、これがほんものの犬--というのは、そのあとでわかることなのだけれど、カメラがお父さんの顔から犬の顔に移っていく。そして止まる。それに「おれの見方はは犬だけだ」というような独白が重なり、犬が死んで、その葬儀のシーンというときのリズムが、なんとも温かい。ほんとうはもっとたくさんのことばがあるのだけれど、99パーセントのことばを削りこんで、ひとつだけ、遅れてやってくることば。
孫について語ったシーンも同じだ。孫がかわいいという気持ちは「じいじ」になった「お父さん」に共通のものだろうけれど、孫といっしょのシーンに遅れて「あごでつかわれる感じがたまらなくうれしい」という実感がおいかけるようにやってくる。実際の「お父さん」の声ではなく、全編、娘が「お父さん」の気持ちを「声」にしているのだが、この「ずれ」というか、やっぱり「映像」に遅れてやってくる「声」がとてもいい。
「映像」を観客の肉体が理解して、その理解をそっと後押しするように「声」(ことば)がやってくる。あるいは音楽がやってくる。ことばや音楽が肉体をひっぱるのではなく、後押しする。そのリズムが、こんなふうにいっていいのかどうか、ちょっとわからないのだけれど、これから死んでいくひとの人生をそっと後ろからささえる呼吸に似ている感じもするのだ。あ、愛するというのは、こういうふうにひとが生きたいと思っていることを、そっと後押しすることかなあ、とも思うのだ。
感動的なシーンはいろいろある。そのクライマックスがお父さんとお母さんの別れのことばのシーンだけれど、それとは別に、あ、これはいいなあ、と感じたシーンがある。主人公の「お父さん」が「砂田知昭」という「営業マン」にかえる瞬間、つまり「砂田知昭」しかいえないような「ことば」に出会い、あ、すごい--と実感するシーンがある。生身との「砂田知昭」に会っている感じがするシーンがある。
予告編にもあったが、息子が父に対し、葬儀の打ち合わせをするシーン。息子が「近親者だけで、というから」と言うと、それを父が訂正する。「近親者だけで葬儀を行ないます、だな」。意味は変わらないのだが、きちんと「葬儀を行ないます」と言えというのだ。(これは、入院してすぐとか、ではなく、ほんとうに死ぬ2日前の会話なのだ。)わかっているから言わないのではなく、わかっていることはすべてことばできちんと説明する。言い漏らさない。--すごいなあ。この「ことばをきちんと最後まで言う」という生き方、姿勢が、砂田知昭という人間をつくってきたのだ。エンディングノートをつくり、それをひとつひとつ消化していく。ことばにして、それをひとつひとつ実行していく。「有言実行」という生き方だね。そのために、「段取り」をする。「段取り」というのは、「有言実行」のための準備なのだ。
このことばがきちんと息子に引き継がれ、父の死後、息子が電話をかけるシーンがあるが、そこでは「近親者だけで葬儀を行ないます」と成文化して言っている。このシーンがこの映画では、私はいちばん好きだ。「お父さん」はたしかに「息子」のなかで生きている。新しく生きはじめている。いのちは、こういう形で具体的に引き継がれていくのだと実感できる。お父さんとお母さんの別れのシーンのように涙が流れてとまらないというのではないが、胸の底に静かに水面が拡がる感じ、広い広い大地が拡がっていく感じが生まれる。
この「引き継ぎ」にも、とても自然な「間合い」がある。その「間合い」がこの映画をすばらしく自然なものにしている。人の死をそのまま映像にするというたいへんな仕事をしているのに、それを普通に昇華させている。
今年見るべき映画の1本である。
監督 砂田麻美 出演 砂田知昭
癌を告知された「日本のお父さん(企業戦士の営業マン)」が死ぬまでを、営業マンらしくスケジュールどおりに生きていく姿をとらえている。すべて計画を立て、そのひとつひとつを実行していく。その結果として死がある。
--というストーリーがどうでもいいというわけではないが。
いやあ、映画というのは「編集」がいのちだねえ。私は映画をつくっているわけではないのだが、感激してしまった。たとえば銀杏並木があって、その映像が無音のまましばらくつづく。そこへ遅れて音楽がかぶさる。なんでもないシーンなのだが、そうだよなあ、ある風景に出会って感動して、その瞬間に音楽が肉体の内部から鳴り響くということはないなあ。美しい風景に肉体がどう反応していいかわからない。しばらくして、やっと肉体が追いつく--そして音楽が聴こえてくる。
すべてがそういうものだと思う。
どんな感動的なシーンでも、瞬間的に肉体が反応するわけではない。次に何が起きるかわかっていても、すぐに肉体が反応するわけではない。わかっていればわかっているほど肉体は反応するまいとかまえる。たとえば、お父さんがお母さんに最期のわかれを言う。お母さんが「いっしょに行きたい」と言う。予告編でも何度も見たシーン。どうなるか、わかっている。そしてわかっているから、私の肉体は身構える。涙を流すまい、泣くまい、とする。その肉体をこじ開けるようにして感情がやっぱり動いてしまう。そして、その頑固な肉体をこじ開け、感情が新しい肉体になるまでの時間--その間合い。遅れてくる真実。こういう時間の動き、肉体の動きを、この映画はとても自然な呼吸、自然なリズムで再現している。
間がいいのだ。そして、この間は編集によってつくりだされるのだ。
古いホームビデオのなかに残っていたお父さんとお母さんの夫婦喧嘩のシーンはその典型だ。「おれは会社で一生懸命働いているんだ。酒ぐらい呑んで帰るさ」というような典型的な夫婦喧嘩。そのときお父さんの膝の上に犬がいる。まったく動かない。ぬいぐるみの置物のようだが、これがほんものの犬--というのは、そのあとでわかることなのだけれど、カメラがお父さんの顔から犬の顔に移っていく。そして止まる。それに「おれの見方はは犬だけだ」というような独白が重なり、犬が死んで、その葬儀のシーンというときのリズムが、なんとも温かい。ほんとうはもっとたくさんのことばがあるのだけれど、99パーセントのことばを削りこんで、ひとつだけ、遅れてやってくることば。
孫について語ったシーンも同じだ。孫がかわいいという気持ちは「じいじ」になった「お父さん」に共通のものだろうけれど、孫といっしょのシーンに遅れて「あごでつかわれる感じがたまらなくうれしい」という実感がおいかけるようにやってくる。実際の「お父さん」の声ではなく、全編、娘が「お父さん」の気持ちを「声」にしているのだが、この「ずれ」というか、やっぱり「映像」に遅れてやってくる「声」がとてもいい。
「映像」を観客の肉体が理解して、その理解をそっと後押しするように「声」(ことば)がやってくる。あるいは音楽がやってくる。ことばや音楽が肉体をひっぱるのではなく、後押しする。そのリズムが、こんなふうにいっていいのかどうか、ちょっとわからないのだけれど、これから死んでいくひとの人生をそっと後ろからささえる呼吸に似ている感じもするのだ。あ、愛するというのは、こういうふうにひとが生きたいと思っていることを、そっと後押しすることかなあ、とも思うのだ。
感動的なシーンはいろいろある。そのクライマックスがお父さんとお母さんの別れのことばのシーンだけれど、それとは別に、あ、これはいいなあ、と感じたシーンがある。主人公の「お父さん」が「砂田知昭」という「営業マン」にかえる瞬間、つまり「砂田知昭」しかいえないような「ことば」に出会い、あ、すごい--と実感するシーンがある。生身との「砂田知昭」に会っている感じがするシーンがある。
予告編にもあったが、息子が父に対し、葬儀の打ち合わせをするシーン。息子が「近親者だけで、というから」と言うと、それを父が訂正する。「近親者だけで葬儀を行ないます、だな」。意味は変わらないのだが、きちんと「葬儀を行ないます」と言えというのだ。(これは、入院してすぐとか、ではなく、ほんとうに死ぬ2日前の会話なのだ。)わかっているから言わないのではなく、わかっていることはすべてことばできちんと説明する。言い漏らさない。--すごいなあ。この「ことばをきちんと最後まで言う」という生き方、姿勢が、砂田知昭という人間をつくってきたのだ。エンディングノートをつくり、それをひとつひとつ消化していく。ことばにして、それをひとつひとつ実行していく。「有言実行」という生き方だね。そのために、「段取り」をする。「段取り」というのは、「有言実行」のための準備なのだ。
このことばがきちんと息子に引き継がれ、父の死後、息子が電話をかけるシーンがあるが、そこでは「近親者だけで葬儀を行ないます」と成文化して言っている。このシーンがこの映画では、私はいちばん好きだ。「お父さん」はたしかに「息子」のなかで生きている。新しく生きはじめている。いのちは、こういう形で具体的に引き継がれていくのだと実感できる。お父さんとお母さんの別れのシーンのように涙が流れてとまらないというのではないが、胸の底に静かに水面が拡がる感じ、広い広い大地が拡がっていく感じが生まれる。
この「引き継ぎ」にも、とても自然な「間合い」がある。その「間合い」がこの映画をすばらしく自然なものにしている。人の死をそのまま映像にするというたいへんな仕事をしているのに、それを普通に昇華させている。
今年見るべき映画の1本である。
とにかく心深くに残る、珠玉のドキュメンタリーでした。
また観てみたい、と映画館を後にして思うドキュメンタリー映画は滅多にない・・・、と思います。
そして監督として携わった砂田さん。
ご実父の事ですから、冷静に撮るなんて大変だったと思うのに、すごいですね。
いろいろなサイトのインタビューとか、解説記事とかを読んでるんですけど、
「恐ろしく現実的なので、ドキュメンタリーに活路」を
見い出した、という記事が結構気になりましたね。
http://www.birthday-energy.co.jp/
今後も裏方メインで、らしいんですけど、
ドキュメンタリーでがんばってほしいですね。