安藤元雄『樹下』(2)(書肆山田、2015年09月05日発行)
詩のことばは詩集のなかで呼び掛け合う。安藤元雄『樹下』の、たとえば32ページ。
「道筋はいつかここを離れ」という一行はとても美しい。「道筋」自体は動くわけではない。そこを通って人が行き過ぎるということなのだが、ここにいる樹(ここにある私)には、道そのものが遠く去っていくように思える。
ほんとうは(学校文法では?)「ここにいる私」「ここにある樹」と言わなければならないのだが、「樹」と「私」が「同一のもの(一体になった存在)」であるとき、「動詞(述語)」が無意識に入れ代わることで「一体感」そのものになるのと同じ様に、「道(筋)」と「行き過ぎる者」もまた「一体感」のなかで「動詞(述語)」を入れ換えてしまう。入れ代わってしまう。
この「道筋はいつかここを離れ」の「道(筋)」は42-43ページの詩では、「樹」になって動く。
「樹」は動かない。しかし「風」が樹を運ぶ。このとき「風」と「風の音」は「行き過ぎる者」で「樹」は「道(筋)」である。そして、動いていくのは、実は「樹」でも「道」でも、あるいは「行き過ぎる者」でも「風(の音)」でもない。
「私」であり、「私の思念」である。
「樹」と「私」が「一体」になるとき、それはそれぞれの「内部」において「一体」にになる。「内部」とは「思念」のことである。
安藤の「思念」が遠く遠く、遥かなところへ動いて行こうとするとき、「樹」も「道(筋)」も遥かなところまで行くのである。「道」と書かずに「道筋」と安藤が書くのは、「筋(つながり/ストーリー/思念)」の方に重心があるからだろう。
また32ページの「水場」、「露」は37ページでは、次のようなことばと呼応する。
「露」はあつまり「河」となって流れ、遠く遠くへゆく。その遥か遠くで「道(筋)」と「河」は出会う。そのとき「行き過ぎる者」もまた「河(水)」と出会う。それは「私」が「河」と出会うということでもある。
「思念」するとき、「私」は「河」であり、「行き過ぎる者」であり、また「河」の最初の一滴の「露」としての「樹」でもある。
世界は、そんなふうにして立体的になってゆく。
こうした変化のことを36ページでは、「奥行きを増す」と書いている。
「私のためではない」。ここに「思念」はないように見える。表面的には、そう見える。しかし、そうではなく、ここでは「思念」が「私」を超えるのだ。
「私」はすでに「樹」であり、「行き過ぎる者」であり、「道筋」であり、「風」である。「露」でもあり「河」でもある。「私」という「枠」を超えてしまっている。だから「私のためではない」というしかないのである。
「私のためではない」。そして、もしかすると、安藤は、それは「樹のためである」と言い換えるかもしれない。「樹の下に坐ったまま」、そう考えるかもしれない。
いま引用した36ページの詩行のあとに、もう一行、
という行がある。
きのう書いたが、ここに登場する「目」は、安藤の「思念」が「目」で統合されていることを証明するかもしれない。「風音」と「聴覚」といっしょに動くことばも出てくるが、「河(水のおもて)」を「目の高さ」と「目」でとらえ直しているところも、その「証拠」のひとつといえるかもしれない。
見えない「内部」、見えない「遥か遠く」も「目」で「見て」、それを「思念」として「筋(ストーリー)」にし、「世界の奥行き」とする。これが安藤の詩だ。
詩のことばは詩集のなかで呼び掛け合う。安藤元雄『樹下』の、たとえば32ページ。
行き過ぎる者たちは知らない ここに私がいて
ここに一本の樹があることを
道筋はいつかここを離れ
水場は遥かに遠く
樹がひたすらにしたたらす露は
ことごとく地に落ちる
「道筋はいつかここを離れ」という一行はとても美しい。「道筋」自体は動くわけではない。そこを通って人が行き過ぎるということなのだが、ここにいる樹(ここにある私)には、道そのものが遠く去っていくように思える。
ほんとうは(学校文法では?)「ここにいる私」「ここにある樹」と言わなければならないのだが、「樹」と「私」が「同一のもの(一体になった存在)」であるとき、「動詞(述語)」が無意識に入れ代わることで「一体感」そのものになるのと同じ様に、「道(筋)」と「行き過ぎる者」もまた「一体感」のなかで「動詞(述語)」を入れ換えてしまう。入れ代わってしまう。
この「道筋はいつかここを離れ」の「道(筋)」は42-43ページの詩では、「樹」になって動く。
闇の中では樹も見えず
葉の揺らぎも見えない
風があれば葉のそよぐ気配だけはするが
むしろそれは葉よりも風の音だろう
たとえば冬 樹が
ことごとく葉を失ったあとも
風は高らかに枝を鳴らす
闇の中で私はそれを聞き 風が遠くへ
私の思念の届くよりも遥か遠くへ
樹を運んで行こうとするのだと思ってみる
「樹」は動かない。しかし「風」が樹を運ぶ。このとき「風」と「風の音」は「行き過ぎる者」で「樹」は「道(筋)」である。そして、動いていくのは、実は「樹」でも「道」でも、あるいは「行き過ぎる者」でも「風(の音)」でもない。
「私」であり、「私の思念」である。
「樹」と「私」が「一体」になるとき、それはそれぞれの「内部」において「一体」にになる。「内部」とは「思念」のことである。
安藤の「思念」が遠く遠く、遥かなところへ動いて行こうとするとき、「樹」も「道(筋)」も遥かなところまで行くのである。「道」と書かずに「道筋」と安藤が書くのは、「筋(つながり/ストーリー/思念)」の方に重心があるからだろう。
また32ページの「水場」、「露」は37ページでは、次のようなことばと呼応する。
日が落ちても日なかの暑さは薄れない
陽炎(かげろう)が野づらに立ちこめ
遠いものをことごとく影絵にする
そこに大きな河が音もなく流れていて
水のおもてがたぶん私の目の高さにあるのを
樹の下に坐ったまま私は感ずる
「露」はあつまり「河」となって流れ、遠く遠くへゆく。その遥か遠くで「道(筋)」と「河」は出会う。そのとき「行き過ぎる者」もまた「河(水)」と出会う。それは「私」が「河」と出会うということでもある。
「思念」するとき、「私」は「河」であり、「行き過ぎる者」であり、また「河」の最初の一滴の「露」としての「樹」でもある。
世界は、そんなふうにして立体的になってゆく。
こうした変化のことを36ページでは、「奥行きを増す」と書いている。
枝の先を日が落ちて行く
赤と黄のしずくを垂らして
大きなくだものに似た日輪が
葉むらより低く
野の向うへとずり落ちて行く
飛ぶものはみなどこかの巣に帰り
世界が不意に奥行きを増す
私のためではない
「私のためではない」。ここに「思念」はないように見える。表面的には、そう見える。しかし、そうではなく、ここでは「思念」が「私」を超えるのだ。
「私」はすでに「樹」であり、「行き過ぎる者」であり、「道筋」であり、「風」である。「露」でもあり「河」でもある。「私」という「枠」を超えてしまっている。だから「私のためではない」というしかないのである。
「私のためではない」。そして、もしかすると、安藤は、それは「樹のためである」と言い換えるかもしれない。「樹の下に坐ったまま」、そう考えるかもしれない。
いま引用した36ページの詩行のあとに、もう一行、
私はただそれを目でうべなうだけだ
という行がある。
きのう書いたが、ここに登場する「目」は、安藤の「思念」が「目」で統合されていることを証明するかもしれない。「風音」と「聴覚」といっしょに動くことばも出てくるが、「河(水のおもて)」を「目の高さ」と「目」でとらえ直しているところも、その「証拠」のひとつといえるかもしれない。
見えない「内部」、見えない「遥か遠く」も「目」で「見て」、それを「思念」として「筋(ストーリー)」にし、「世界の奥行き」とする。これが安藤の詩だ。
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