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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(14)中井久夫訳

2009-01-25 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
地下室付三階建    リッツォス(中井久夫訳)

三階には貧乏学生が八人。
二階にはお針子が五人と飼い犬が二匹。
一階には地主とその養女と。
地下室には籠類と瓶類とねずみと。
三つの階の階段は共通だった。
ねずみは壁を登った。
夜、汽車が通る時、ねずみたちは
煙突から屋根に出て、
空を眺めた。雲も。庭の柵も。
料理店の灯も。
その下ではお針子が鎧戸を閉めた、
口にいっぱい針をくわえて。



 静かなスケッチである。
 6行目からはじまる「ねずみ」の描写がおもしろい。ねずみがほんとうに空を眺めたり、料理店の灯を眺めたりすしたかどうかは、わからない。ねずみはほんとうはそんなことをしないかもしれない。けれど、そうさせたい。ねずみに、そういう行為をさせたい。--それは、その建物のなかにいる人間たちの夢である。ねずみに託して、そういう夢を見ているのだ。それは、そこに住む人間たちがしたくてもできないことなのだ。時間がなくて……。
 人間は、たとえば「お針子」は、ねずみになって、ずーっと何かをみつめているという夢を「鎧戸」を閉ざすように閉ざして、仕事にもどる。

 ほんのひとときの、つましい夢。ねずみによって、それがいきいきしてくる。そして、そんな気持ちで読み返す時、5行目が、とても美しく見える。

三つの階の階段は共通だった。

 貧乏学生が通る。お針子が上る。地主も養女も上る。ねずみは「壁を登った」とあるけれど、ときには(人間がだれもいないときには)階段を上ったかもしれない。だれもに「共通」の階段なのだ。おなじように、ねずみの夢も人間の夢と共通なのだ。生きているもの、いのちがあるものに「共通」の夢なのだ。

 「共通」ということばが、とても美しい。

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