goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロバート・アルトマン監督「今宵、フィッツジェラルド劇場で」

2007-04-04 00:12:01 | 映画
監督 ロバート・アルトマン 出演 メリル・ストリープ、ケヴィン・クライン、ヴァージニア・マドセン

 見えないはずのものが見える。これがこの映画のテーマだ。「幽霊」が登場する。「幽霊」は見えないはずのものが見えることの「象徴」だ。
 ラジオショウ。ラジオを聞いているかぎり、実際の舞台は見えない。生中継を聞きに(見に)行っている観客に舞台は見えても楽屋は見えない。どんな世界にも常に見えないものが存在する。その見えないはずのものを見えるように描いたのがこの映画だ。見えない部分に人間のいのちがある、というのがこの映画のほんとうのテーマである。
 脚本もいいのだと思うけれど、何よりも演出がすばらしい。群像劇の場合、どうしても「つなぎめ」がぎくしゃくする。登場人物のそれぞれをくっきりと描こうとすると、エピソードがかわるたびに、もう一度映画を撮り直す(?)という感じになる。主役がかわるたびに画面の質さえ変わってしまいがちだ。ロバート・アルトマンのこの映画ではそういうことがまったく起きない。場面がラジオショウの舞台と楽屋に限られているから、というよりも、やはり人間をとらえる視点がしっかりしているからだろう。多くの人がそれぞれの人生を背負って生きている。そのうちの誰かに肩入れするというのではなく、肩入れを拒んで演出している。言いたいこと(演じたいこと)があるなら言いなさい(演じなさい)、それをきちんと受け止めてあげますよ、という温かな視線が画面のすみずみに行き届いている。
 売れない(?)シンガーたちである。豪華さはない。衣装も化粧も華やかさからは遠い。しかし、そこに長い時間をくぐりぬけてきた不思議な肌触りがある。衣装が肉体になってしまっている感じがする。(この逆のエピソードが、司会者のズボンをはいていない姿だ。肉体が衣装なのである。今、ここに存在することが、そのひとのすべてなのである。)
 登場する誰もが自分の人生を受け入れている。もちろん受け入れがたいこともある。悲しみも怒りもある。それでも受け入れている。悲しみも怒りも肉体にしてしまっている。そのうえで、自分に何ができるか、それを探して生きている。そこからやさしさが始まる。受け入れることから始まる他人へのやさしさがある。
 「幽霊」さえも自分の人生を受け入れている。なぜ交通事故で死んだのだろう。ラジオから流れてくるジョーク、そのどこがおかしくて笑ったのかもわからない。わからないけれど、死んでしまった。そして死んでしまったことを受け入れている。死んだあと、自分にできることは何か、それを知って、自分にできることをやっている。
 どこかに隠してしまっておいて、ときどき見つめてみたい宝物のような、いとしさがこみ上げてくる作品だ。



 メリル・ストリープがすばらしい。ラジオショウという見えない舞台での人間らしく、体をしぼりきっていない感じ、疲労感をただよわせた肉体。疲労感をただよわせながらも、疲労くらいでは死にはしないというたくましさ。「プラダを着た悪魔」よりも格段にすばらしい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小池昌代「45文字」 | トップ | 入沢康夫と「誤読」(メモ3) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事