監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」は脚本が非常によくできている。しかし、それは映画向きではない。舞台向きだ。
ラストシーン。フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルが「レイプ魔」らしい男を殺しに行く。その途中で「ほんとうに殺す?」というようなことを相談する。「行く途中で考える」というような、やりとりだ。これは「舞台」なら余韻のある幕切れだが、映画では不完全燃焼である。「台詞」が邪魔だ。ことばに頼らずに、「どうする?」「ドライブしながら考える」というのを、「肉体(表情)」で伝えないと映画にならない。ことばで説明してしまうので、「余韻」を押しつけられる感じがするのである。
芝居は、「一声、二姿、三顔」という。これをもじって言えば、映画は「一顔、二姿、三声」である。初期の映画が「無声映画」であったように、ことばは「補足」。なくてもわかるのが「映画」である。表情の変化を見せるために巨大スクリーンがある。そのことをこの映画は忘れてしまっている。そして、ことばに頼っている。
もし、これが「舞台」だったら、と想像してみよう。そうすると「脚本」の「傑作」さ加減がわかる。
まず最初に登場する赤いビルボード(看板)。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」という文字は、舞台なら「一幕」中、ずーっと「背景」として存在する。観客はいつでも「看板(文字、ことば)」を見ながら役者の演技を見る。フランシス・マクドーマンドが何を言うたびに、そこに「声にならない声」があると気づかされる。実際に「声」でいわなくても「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」も、それが「聞こえる」。看板は、フランシス・マクドーマンドの、もうひとつの「顔」であり、「姿」である。その赤い色、黒い大きな文字は怒りと悲しみの「声」である。つまり、舞台では、常にフランシス・マクドーマンドが二人いることになるのだ。「生身」の肉体と、「看板」になった肉体。その「拮抗」が芝居そのものをつくっている。
映画では、その拮抗が薄れる。緊張感が「舞台」ほどもりあがらない。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」と、観客が常に思い出さないといけない。その声は聞こえるは聞こえるが、「記憶」としての声である。常に看板が目の前にあり、それが「現実」として見えるわけではない。「声」の見え方が違う。フランシス・マクドーマンドは頑張っているが、「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」が観客の意識に常に「見える」わけではない。それが「ドラマ」の拮抗を弱くしている。
この映画が「声(ことば)」に頼っている、という欠点は、ストーリーがウッディ・ハレルソンの自殺を契機に動くところに極端に現れている。ウッディ・ハレルソンは自殺することで「ことば(遺書)」を残す。それがフランシス・マクドーマンドにもサム・ロックウェルにも働きかけ、ふたりをつなぐことにもなる。「ストーリー」としては「芝居」であろうが「映画」であろうが、同じだが、「声」を問題にするとまったく違う。
「舞台」は何度でも書くが、「声」を聞く場である。観客はまず何よりも「役者の声(ことば)」を共有する。声の変化、強さ、スピード、明るさ、暗さ。「声」がぶつかりあって、それが「感情(肉体)」のぶつかりあいになる。「声」が「空間」を支配し、「声」の飛び交う空間(劇場)そのものが観客の「肉体」になるとき、「劇場」全体が昂奮する。そこでは「顔」の占める「領域」は小さい。
「声」を聞かせるものだから、それが「遺書」であっても、かまわない。またその「声」が必ずしもウッディ・ハレルソンのものでなくてもいい。ウッディ・ハレルソンの「声」ではじまり、途中からフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」に変わったとしても、(あるいはフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」ではじまり、ウッディ・ハレルソンの声に変わったとしても)、それは「声」を弱めるのではなく、逆に「声」を強くすることになる。「声(ことば)」が共有され、死者と生きているものによって共有され、その共有がそのまま観客に共有されるからだ。
これは「舞台」でなら、絶大の効果をあげる。(と、思われる。)
でも、映画では逆に「興ざめ」になる。「声」が聞こえるとき、その「声」の持ち主の姿は見えず、読んでいるフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルが見えるだけだからである。映画の「撮り方」に問題があるのだ。「映画」になりきれていないのだ。自殺するシーンそのものに「遺書の声」がかぶさる、あるいは「遺書のことば」を一気に読み上げるのではなく、断片的に別なシーンに重なる形で紹介されるというのでないと、「意味」だけが押しつけられたものとして残る。三枚の看板のように、三通の手紙(妻と、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの三人への手紙)として、観客が「意識」しないとストーリーが展開しなくなる。役者の「肉体」が「そえもの」になってしまう。「声」と「肉体」が戦わなくなってしまう。
舞台では、そこに常に「生身」の「肉体」がある。その「肉体」を突き破って「声」が動く。暴れる「声」と「肉体」が常に向き合っている。ときに戦い、ときに助け合い、「声」と「肉体」が同時に解放される瞬間を目指している。
映画は違う。
映画は、常に「顔(肉体)」が解放される瞬間を待っている。「顔」がかわる瞬間、役者が役者ではなく、「生身の人間」になる瞬間を待っている。それを観客は見る。そのとき観客の「肉体」のなかで、観客の「声」が動く、観客自身の「声」が生まれてくるというのでないと、映画とは言えない。それを、この監督は理解していない。人間が微妙にからみあい、そこから人間が変化していくという「ストーリー」は完璧だが、それは「ストーリー(脚本)」として完璧なのであって、「映画」としては不完全である、と私は思う。
(T-joy博多、スクリーン2、2018年02月04日)
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」は脚本が非常によくできている。しかし、それは映画向きではない。舞台向きだ。
ラストシーン。フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルが「レイプ魔」らしい男を殺しに行く。その途中で「ほんとうに殺す?」というようなことを相談する。「行く途中で考える」というような、やりとりだ。これは「舞台」なら余韻のある幕切れだが、映画では不完全燃焼である。「台詞」が邪魔だ。ことばに頼らずに、「どうする?」「ドライブしながら考える」というのを、「肉体(表情)」で伝えないと映画にならない。ことばで説明してしまうので、「余韻」を押しつけられる感じがするのである。
芝居は、「一声、二姿、三顔」という。これをもじって言えば、映画は「一顔、二姿、三声」である。初期の映画が「無声映画」であったように、ことばは「補足」。なくてもわかるのが「映画」である。表情の変化を見せるために巨大スクリーンがある。そのことをこの映画は忘れてしまっている。そして、ことばに頼っている。
もし、これが「舞台」だったら、と想像してみよう。そうすると「脚本」の「傑作」さ加減がわかる。
まず最初に登場する赤いビルボード(看板)。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」という文字は、舞台なら「一幕」中、ずーっと「背景」として存在する。観客はいつでも「看板(文字、ことば)」を見ながら役者の演技を見る。フランシス・マクドーマンドが何を言うたびに、そこに「声にならない声」があると気づかされる。実際に「声」でいわなくても「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」も、それが「聞こえる」。看板は、フランシス・マクドーマンドの、もうひとつの「顔」であり、「姿」である。その赤い色、黒い大きな文字は怒りと悲しみの「声」である。つまり、舞台では、常にフランシス・マクドーマンドが二人いることになるのだ。「生身」の肉体と、「看板」になった肉体。その「拮抗」が芝居そのものをつくっている。
映画では、その拮抗が薄れる。緊張感が「舞台」ほどもりあがらない。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」と、観客が常に思い出さないといけない。その声は聞こえるは聞こえるが、「記憶」としての声である。常に看板が目の前にあり、それが「現実」として見えるわけではない。「声」の見え方が違う。フランシス・マクドーマンドは頑張っているが、「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」が観客の意識に常に「見える」わけではない。それが「ドラマ」の拮抗を弱くしている。
この映画が「声(ことば)」に頼っている、という欠点は、ストーリーがウッディ・ハレルソンの自殺を契機に動くところに極端に現れている。ウッディ・ハレルソンは自殺することで「ことば(遺書)」を残す。それがフランシス・マクドーマンドにもサム・ロックウェルにも働きかけ、ふたりをつなぐことにもなる。「ストーリー」としては「芝居」であろうが「映画」であろうが、同じだが、「声」を問題にするとまったく違う。
「舞台」は何度でも書くが、「声」を聞く場である。観客はまず何よりも「役者の声(ことば)」を共有する。声の変化、強さ、スピード、明るさ、暗さ。「声」がぶつかりあって、それが「感情(肉体)」のぶつかりあいになる。「声」が「空間」を支配し、「声」の飛び交う空間(劇場)そのものが観客の「肉体」になるとき、「劇場」全体が昂奮する。そこでは「顔」の占める「領域」は小さい。
「声」を聞かせるものだから、それが「遺書」であっても、かまわない。またその「声」が必ずしもウッディ・ハレルソンのものでなくてもいい。ウッディ・ハレルソンの「声」ではじまり、途中からフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」に変わったとしても、(あるいはフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」ではじまり、ウッディ・ハレルソンの声に変わったとしても)、それは「声」を弱めるのではなく、逆に「声」を強くすることになる。「声(ことば)」が共有され、死者と生きているものによって共有され、その共有がそのまま観客に共有されるからだ。
これは「舞台」でなら、絶大の効果をあげる。(と、思われる。)
でも、映画では逆に「興ざめ」になる。「声」が聞こえるとき、その「声」の持ち主の姿は見えず、読んでいるフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルが見えるだけだからである。映画の「撮り方」に問題があるのだ。「映画」になりきれていないのだ。自殺するシーンそのものに「遺書の声」がかぶさる、あるいは「遺書のことば」を一気に読み上げるのではなく、断片的に別なシーンに重なる形で紹介されるというのでないと、「意味」だけが押しつけられたものとして残る。三枚の看板のように、三通の手紙(妻と、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの三人への手紙)として、観客が「意識」しないとストーリーが展開しなくなる。役者の「肉体」が「そえもの」になってしまう。「声」と「肉体」が戦わなくなってしまう。
舞台では、そこに常に「生身」の「肉体」がある。その「肉体」を突き破って「声」が動く。暴れる「声」と「肉体」が常に向き合っている。ときに戦い、ときに助け合い、「声」と「肉体」が同時に解放される瞬間を目指している。
映画は違う。
映画は、常に「顔(肉体)」が解放される瞬間を待っている。「顔」がかわる瞬間、役者が役者ではなく、「生身の人間」になる瞬間を待っている。それを観客は見る。そのとき観客の「肉体」のなかで、観客の「声」が動く、観客自身の「声」が生まれてくるというのでないと、映画とは言えない。それを、この監督は理解していない。人間が微妙にからみあい、そこから人間が変化していくという「ストーリー」は完璧だが、それは「ストーリー(脚本)」として完璧なのであって、「映画」としては不完全である、と私は思う。
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瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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