監督 ロマン・ポランスキー 出演 ユエン・マクレガー、ピアース・ブロスナン
雨。曇った空。冷たい風。--舞台はアメリカ東部の島がメーンなのだが、どこで撮ったのだろう。冬の冷たい感じが美しい。暗い色の統一感がすばらしい。
私がいちばんおもしろいと思ったのは、ピアース・ブロスナンの住んでいる家の構造である。窓である。巨大な一枚ガラスの窓。ピアース・ブロスナンの書斎になるのだろうか、ユエン・マクレガーが「自伝」のためのインタビューをする。その部屋の窓が、なんともいえない「圧迫感」がある。ガラス窓だから、そのガラス越しに向こうの海が見える。波が見える。見えるのだけれど、それは見えるだけ。音は聞こえてこない。もちろん空気も入って来ない。巨大な一枚のガラスが世界を区切っている。「引き戸」なのかもしれないが、どうもそうは見えない。防犯・防衛もかねて、きっと強化ガラスなのだと思う。こういうのって、苦しくない?
この外部との遮断、建物の外部がそこにあるのに出ていけない感じとは逆に、家の内部はドアがあっても閉ざされていない。ユエン・マクレガーの部屋へピアース・ブロスナンの妻が簡単に入ってくる。セックスもする。それはもちろん「秘密」にされるのだけれど、どうも、あの一枚ガラスの窓と比較するとき何か奇妙な感じがする。とても違和感が残る。
見せたいものと見せたくないもの。見てもらいたいものと見てもらいたくないもの。それが、ごく一般的な市民感覚とは違うのだ。いや、市民感覚というと変かなあ。私の感じとは相いれない。
イギリス人って、こういうのが平気?
それとも、これはポランスキーの仕組んだ罠?
まあ、映画の「罠」なんだろなあ。「雨」もそうだなあ。この映画では、雨も演技しているなあ。雨というのは不思議だ。雨が降っているからといって、ひとは動けないわけではない。向こう側が見えないわけではない。でも、雨だと、なんとなく動きたくない。濡れたくない。--そういう気持ちに逆らって(いや、雨はイギリス人は平気だから?)、ユエン・マクレガーが「前任者のゴーストライター」が死んだ現場へ自転車で行く。このあたりの、「抵抗感」(肉体が感じる空気の感触)が、なんともいえずざらついている。爽快感がない。マット・デイモンの出るスパイ映画だと、もっとからっとした空気のなかでものごとがつきつめられていくけれど、ポランスキーの映画では、そうじゃないねえ。うーん。
そうして、だんだん「距離感」がおかしくなる。人間関係の「距離感」が。だれが味方? だれが敵? 敵味方というと変だけれど、「事実」が人によって違ってくる。そこに「見える」ものは「ひとつ」なのに、そうではない。その「ひとつ」は別の角度からみると、まったく逆のものである。
あ、いつ、あの巨大な一枚ガラスをユエン・マクレガーはすりぬけたのだろう。そうして、いつ簡単に開く扉を固く閉ざし、「自己」を確立したのだろう。「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったのだろう。
「ゴースト」が「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったとき、それまで「リアル」だった人間が「ゴースト」になる。
それで終わればハッピーエンディング。
でも、ポランスキーだらか、そんな具合には終わらないね。観客がかってに「真実」を知ればそれでいいだけであって、ストーリーは、また暗く冷たい雨のなかへ封じこめられる。濡れて、冷たくなって、それでも「真実」を自分で探す勇気はあるか。
見えているものと見えないものの区別を自分でつくりだせるか。見せたいものと見せたくないものの区別を知った上で、見えないものを見るだけではなく、それが見えるようにすることができるか。
ちょっときびしいことを問いかけてくる映画である。
でも、まあ、こういうストーリー(意味)はどうでもいいなあ。あの、雨の感じ、空の感じ、冷たい冬の雨に濡れる感じ--そのなかで、体の芯が凍える感じを味わえばそれでいい映画である。それ以上は、ストーリーの付け足し。
雨。曇った空。冷たい風。--舞台はアメリカ東部の島がメーンなのだが、どこで撮ったのだろう。冬の冷たい感じが美しい。暗い色の統一感がすばらしい。
私がいちばんおもしろいと思ったのは、ピアース・ブロスナンの住んでいる家の構造である。窓である。巨大な一枚ガラスの窓。ピアース・ブロスナンの書斎になるのだろうか、ユエン・マクレガーが「自伝」のためのインタビューをする。その部屋の窓が、なんともいえない「圧迫感」がある。ガラス窓だから、そのガラス越しに向こうの海が見える。波が見える。見えるのだけれど、それは見えるだけ。音は聞こえてこない。もちろん空気も入って来ない。巨大な一枚のガラスが世界を区切っている。「引き戸」なのかもしれないが、どうもそうは見えない。防犯・防衛もかねて、きっと強化ガラスなのだと思う。こういうのって、苦しくない?
この外部との遮断、建物の外部がそこにあるのに出ていけない感じとは逆に、家の内部はドアがあっても閉ざされていない。ユエン・マクレガーの部屋へピアース・ブロスナンの妻が簡単に入ってくる。セックスもする。それはもちろん「秘密」にされるのだけれど、どうも、あの一枚ガラスの窓と比較するとき何か奇妙な感じがする。とても違和感が残る。
見せたいものと見せたくないもの。見てもらいたいものと見てもらいたくないもの。それが、ごく一般的な市民感覚とは違うのだ。いや、市民感覚というと変かなあ。私の感じとは相いれない。
イギリス人って、こういうのが平気?
それとも、これはポランスキーの仕組んだ罠?
まあ、映画の「罠」なんだろなあ。「雨」もそうだなあ。この映画では、雨も演技しているなあ。雨というのは不思議だ。雨が降っているからといって、ひとは動けないわけではない。向こう側が見えないわけではない。でも、雨だと、なんとなく動きたくない。濡れたくない。--そういう気持ちに逆らって(いや、雨はイギリス人は平気だから?)、ユエン・マクレガーが「前任者のゴーストライター」が死んだ現場へ自転車で行く。このあたりの、「抵抗感」(肉体が感じる空気の感触)が、なんともいえずざらついている。爽快感がない。マット・デイモンの出るスパイ映画だと、もっとからっとした空気のなかでものごとがつきつめられていくけれど、ポランスキーの映画では、そうじゃないねえ。うーん。
そうして、だんだん「距離感」がおかしくなる。人間関係の「距離感」が。だれが味方? だれが敵? 敵味方というと変だけれど、「事実」が人によって違ってくる。そこに「見える」ものは「ひとつ」なのに、そうではない。その「ひとつ」は別の角度からみると、まったく逆のものである。
あ、いつ、あの巨大な一枚ガラスをユエン・マクレガーはすりぬけたのだろう。そうして、いつ簡単に開く扉を固く閉ざし、「自己」を確立したのだろう。「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったのだろう。
「ゴースト」が「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったとき、それまで「リアル」だった人間が「ゴースト」になる。
それで終わればハッピーエンディング。
でも、ポランスキーだらか、そんな具合には終わらないね。観客がかってに「真実」を知ればそれでいいだけであって、ストーリーは、また暗く冷たい雨のなかへ封じこめられる。濡れて、冷たくなって、それでも「真実」を自分で探す勇気はあるか。
見えているものと見えないものの区別を自分でつくりだせるか。見せたいものと見せたくないものの区別を知った上で、見えないものを見るだけではなく、それが見えるようにすることができるか。
ちょっときびしいことを問いかけてくる映画である。
でも、まあ、こういうストーリー(意味)はどうでもいいなあ。あの、雨の感じ、空の感じ、冷たい冬の雨に濡れる感じ--そのなかで、体の芯が凍える感じを味わえばそれでいい映画である。それ以上は、ストーリーの付け足し。
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