詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

楊克『楊克詩選』(竹内新編訳)

2017-04-19 23:16:21 | 詩集
楊克『楊克詩選』(竹内新編訳)(思潮社、2017年04月30日発行)

 楊克『楊克詩選』はシンプルな「算数」でできている。つかう数字は1と2。数式はみっつ。
①1+1=1。
 答えの「1」は「一対」と「対」を補うとわかりやすい。対は「対句」の対。
②半分(1/2)+半分(1/2)=1。
 答えの「1」は完全。「1=半分+半分」と言い換えることができる。
③1+1=2。
 答えの「2」は「無限(無数)」をあらわす。中国人にとって「2」は無限のはじまり。
 これを作品を引用しながら私が感じたことを書いてみる。


 
 数式とは順序が逆になるが、まず、
②半分(1/2)+半分(1/2)=1。
 巻頭の「地球--リンゴの半分」が、この数式を基本にしている。

私が西海岸の夜明けに目を覚ませば
東の方ではちょうど君が夜へ入ってゆくところ
地球は一個のリンゴであり

 西半球と東半球。地球を東西で半分にわける。「1=(1/2)+(1/2)」。半分が合体して完全な「1」になる。
 ここには「夜明け」と「夜へ入る」という対句構造もあるのだが、とりあえず②のことを書く。
 この西半球、東半球は、「私」と「君」を代弁する。それぞれ一人の人間なのだが、それは「完成形」ではない。完成形になるには「私」と「君」が一緒にならないといけない。「(1/2)+(1/2)=1」という考え方は、プラトンの恋愛論にも出てくる。もともと「一人」だったものが半分にされた。だから、分断された半分を探し出すことで、完全な「一人」になることができる。これは、まあ、恋愛の歌である。
 このあと、詩は、こうつづいている。

アルファベットのO 神がバットを振って
ジャストミートしたボール 宇宙をころころ絶えず転がっている
私はアメリカ的なこの喩えがとても気に入っている
だが私は祖先の太極思想に心酔しているのだ 物事の天地は
ちょうど互いに尻尾をくわえて頭と尻尾がつながる陰陽魚のようなものだ
この概念は地球であるおまえによってとりわけ明晰になるのだ

 「天と地」「尻尾と頭」「陰と陽」。「対」になるものが結合することで「完全」になる。「1」になる。
 「概念」ということばが出てくるが、「対」が概念を明晰にするというのは、①1+1=1のことなのだが、しばらく脇に置いておいて……。
 詩の最後が、また、非常におもしろい。

おまえの便りは
鯨のように太平洋を横切り
リンゴともう一つのリンゴが
手の平に 東半球と西半球は
そんなに近い 隣の女の子のようなものだ

 「リンゴともう一つのリンゴ」というとき、それは「私と君」とおなじように、実は「二つ(二人)」。それなのに、「東半球」「西半球」と「半分」にした上で、出会わせ、一個の完全な地球にしている。
 この世界観は「厦門の白鷺洲」で繰り返されている。

都市の半分はすでに眠りについたが 半分はまだ起きている
ここにやって来た私と妻は 半分ともう一方の半分

 ここに楊克の「算数」のおもしろさがあるのだが、もう少し、数字の「秘密」を語りたい。
 この詩には「二」が頻繁に出てくる。

目にくっきり映るのは二本松
浅い池には二羽の野鴨
二株の青々と育った野菜のように

 これは「対」になることで「完全」になるという中国の思想をあらわしていると思う。だから、「二本松」「二羽の野鴨」「二株の野菜」は、「二」という数字を持っているがほんとうは「1」なのである。日本人なら、こういうとき数字を出さずに「松」「野鴨」「野菜」と書くだろう。楊克がここでつかっている「2」は無意識の「2」なのだ。

①1+1=1。(一対)
 中国の古典的な漢詩は「起承転結」から成り立っている。そして「起承」は一種の「対句」になっている。「対句」になることによって、世界の何かが見えてくる。
 「駅」の一行目。

駅は大都市が古いものを吐いて新しいものを受け取るための胃だ

 「古い」と「新しい」、「吐く」と「受け取る」が対を構成しながら「胃」という形で結晶する。「胃」は「駅」の比喩なのだが、その比喩のなかに「対句」がある。「口」といわずに「胃」というのは、「大都市」は人を消化するからだろう。
 「対句」になることによって、単独では存在しなかった新しい「概念(ものの見方)」が生まれる。そして、その新しいものの見方が「胃」という比喩を強烈にする。
 「概念」を「論理(性)」と呼び変えることもできると思う。「対句」によって、それまで見えなかった「論理」が見えてくる。新しい運動が見えてくる。
 「ゲーテ旧居」の次の二行。

爆撃はあなたの旧居を砕いたが
あなたの詩歌を消し去ることはできなかった

 旧居を破壊する暴力、暴力によってでは破壊されない詩歌のことば。「対句」になることで「概念/論理」が強靱になる。
 この作用のことを、楊克は「濾過」ということばで語っている。

たいていは文字が幾つかのものを濾過されているのだ (「音のない夜」)

 対句だけに限ることではないが、ことばがぶつかり合いながら動くとき、それは「濾過」作用を引き起こす。「1」では見えなかったものが「1+1」のなかで、「2」のなかに存在する「1」を浮かび上がらせる。そうやって「強化された1」が詩なのだ。
 でも、「1+1=2」では「算数」があわない、ということになるかもしれない。消えてしまった「残りの1」はどこに?
 「論理」ではないものになっていると私は思う。
 私の独断でいえば、「残りの1」は「音楽」になっている。「意味」ではなく、「ことばの響き」になっている。「意味(論理)」の強化だけではなく、それがそのまま「口にして楽しい/耳に聞いてなじみやすい」という「音」の強化でもあるとき、詩が完成するのだと思う。

爆撃はあなたの旧居を砕いたが
あなたの詩歌を消し去ることはできなかった

 ここでは、「消し去る」という「音」のかなしさ。「詩歌(しいか)」というゆったりした響きの美しさ。
 原文では「旧居」と「消去」という感じで「韻」を踏んでいるのかもしれない。
 それはそれでいいのだが。
 私は「日本語」で読んでいるので、この「消し去る」という音の響きの「音楽」にひかれる。(中国人は「消去」のままでも「音楽」を感じるかもしれないが。)
 「電話」のなかの「対句」は説明しようとすると、とても複雑だが、「私」と「君」の共通のものが、二人の中の非共通を消し、共通するものを浮かび上がらせる。この、消しつつあらわすという矛盾した動きのなかに、論理と音楽がある。
 そして、この「対句」というのは、「自他の対立」(弁証法)とは違うのである。否定を通して止揚するというのではなく、「自他」のなかにある共通のものが結びつくのである。

爆撃はあなたの旧居を砕いたが
あなたの詩歌を消し去ることはできなかった

 ここでは「強さ」というものが「論理」として結合している。「爆撃」という暴力の「強さ」、「詩歌(ことば)」の「強さ」。「詩歌(ことば)」は「強い」とは直接的に書いていないが、対になることで見えてくる。
 これを「発見」と呼ぶこともできると思う。

 いま、私は、「(1/2)+(1/2)=1」と「1+1=1」を便宜上分けて書いたけれど、これはいつも単純にどちらかに分類できるものでもない。
 「電話」のなかの次の行。

<自我>と<他者>が互いを潤し合い
告白とそれを受け止める耳とは一つになり

 これは「私」と「君」のことだから「(1/2)+(1/2)=1」かというと、そうではなく、それぞれ「1」のまま「一つ」になっている。
 完全に「分類」できない何かを含むのが詩なのだ。
 完全に「分類」できないけれど、どうしても何か通じる「基本」があると感じさせるものが詩であると言えるかもしれない。

③1+1=2(無限)。
 こんなことばが頻繁に出てくる。

彼女は玉ねぎを一皮一皮むき  (「ゲーテ旧居」)

天を向く石榴の木を一本一本見つめると  (「石榴のなかに我が祖国が見えた」)

パッチワークのような墓石の一つ一つからは   (「清明」)

 これはどこまでもつづく足し算である。「1+1」しか書いていないのだが、どこまでもつづく。「無限」である。
 ここから逆に言うと、中国人は(楊克は)、「2」以上の数を知らないのだ。つまり「2」は数字の「完全な形」であり、世界の「完全な形」を象徴しているのだと言える。別なことばで言うと「2」以上は無意味。「2」と「1」だけに意味がある。
 「2」をあらわすことばには幾つかある。「白雲の上」には

双子の兄弟のように

 という比喩が出てくる。「双」が「2」。これを「別の飛行機」とも呼んでいるから「双」は「別」という意味を含んでいるだろう。
 詩集を読みとばしてしまったので、そういうことばがあったかどうか思い出せないが、もうひとつ「両」というのも「2」をあらわすと思う。これは「別の」というよりも「一緒の」という意味になると思う。
 「一緒」にいること(あること)によって完璧になると考えると、
①1+1=1。(一対)
②半分(1/2)+半分(1/2)=1。(完全)
 というのは、はっきり区別できるものではなく、相互に行き来するものであることになる。
 ①②をあわせて、「1=2」あるいは「2=1」が、中国人の世界観、楊克の世界観という気がする。
 あ、脱線した。
 ③1+1=2(無限)の世界を端的にあらわしたのが「人民」という作品だと思う。ここには「一つ一つ」というようなことばは出て来ないのだが、「一つ一つ」のかわりに「一人一人」に「呼称」が与えられている。

賃金を要求する出稼ぎ労働者たち。
手掘りの大平炭坑から伸び出ている
損傷を被った一四八人分の掌。
売血でエイズに感染した李愛葉。
黄土の高い傾斜地で羊を放牧する与太者。
指に唾をつけて金を数えるお喋り女。
理髪師、合法ではない性サービス者。
都市管理当局とゲリラ戦を展開する露天商。
サウナを必要とする
小経営者。

 「一人一人」にはそれぞれ個別の「動詞」が結びついている。体言止めのため「動詞」は見えにくいが、人の数だけ「動詞」がある。一行目は「出稼ぎ労働者たちは賃金を要求する」と言いなおすことができる。そう言いなおせば、「動詞」の数だけ人がいることがわかる。「一人一人」はこうやって、「無限」になっていく。そういう「無限」が「人民」である、と楊克は言う。
 で。
 この「一人一人」というのは、これまで見てきた中国人の思想(楊克の思想)から見ると、不完全である。大問題である。「両」という形にならないと「完全」ではない。
 だから、楊克は「一人一人」と手を結ぶために、こう言う。

長安街から広州大通りまで
私はこの冬まだ<人民>に出くわしたことがない。
卑小な話をする無数の身体を目にしただけだ。
毎日バスに乗り
互いに暖を取っている。
それを使用する人間は
それがまるで汚れた小銭であるかのように
眉に皺よせて、彼らを手渡すのだ、社会へと。

 「1+1=2」を私は「無限」と呼んだが、楊克は「無数」と呼んでいる。「無数」は「無限」でもあるけれど、まだ「数ではない(1ではない)」ということでもある。「数ではない(1未満)」を「1(数)」にするためには、それと向き合い「両」という形を、対をつくらなければらない。
 最後の方の「それ」とは何か。「無数の身体」である。身体というのは「動詞」の主語である。詩の前半で「一人一人」に「動詞」が違っていたことをみた。「それ」は「動詞」のことでもある。「動詞」によって、つまり何をするかによって、ひとは特徴づけられる。
 そのさまざまな「動詞」をどうやって「両」の形にしていくか。
 「動詞/身体」と対をつくるのは何か。
 楊克は、「ことば」であると言うだろう。「詩」であると言うだろう。
 私は、そんなふうに読みたい気持ちでいる。詩で人民と連帯する、という決意として読みたい。

 *

 私は目が悪くて、長くパソコンに向かっていられないのだが、もう少しだけ気づいたことを書いておく。
 この詩集は「数字」を基本にして読むと、おもしろいことがある。「2」については書いたが、その「2」と同時によく出てくるのが「4」「8」である。「四方」あるいは「四方八方」という感じ。2の倍数である。
 一方、奇数は少ない。「ラッキーセブン」ということばとともに日本人か好む「7」がない。(私は「4」が好きなのだけれど。)
 出てきても「曹植がゆっくり七歩往来して」という故事として出てくるだけである。「七歩の内に詩を作れ、そうでなければ、法によって処罰する」というなかなか厳しい「7」である。不吉な数字なのかもしれない。「誰某」には

男六人女一人が死んだのを観た

 と「七」は「6+1」という形で言いなおされている。具体的に書いたとも言えるが、楊克(中国人の)の「七嫌い」を象徴しているかもしれない。
 日本人は、どちらかというと「奇数好み」であると私は感じる。「段違いの棚」などアンバランスなものにこころが動かされる。シンメトリー(対称)は苦手だ。日本庭園なども、アンバランスのバランスであって、西洋の庭園のように対称にはつくらない。アンバランスの方を自然に感じるのだと思う。
 これに対して、中国人は偶数好みである、と私はこの詩集を読みながら感じたのだった。しっかりとバランスをとっているもの、整っているものが「文化」なのだと考えるのが中国人かもしれない。

 この偶数好み、あるいは「対好み」という観点から詩を読むとき。
 私はふとゲーテを思い出したのである。楊克はゲーテに似ている。ゲーテはドイツ語の詩人。ドイツ語は「枠構造」というか、「構文」の意識が非常に強い(と、知ったかぶりをして書く)。中国語にドイツ語のような構文があるかどうかしらないが、「対句」の思考が無意識の「構文」をつくっていると思う。「1」ではなく「2」が完全である。「2」こそが「1」であるという意識。
 この強い意識で、ひとのこころの無意識の部分で動いていることばをととのえる。そして、動かす。「休むことなく、憩うことなく」というのがゲーテの特徴だが、それにとても似ていると思う。「ゲーテ旧居」が一階、二階、三階と具体的な数字をリズムにして、駆け抜けていく自然な感じもゲーテに似ていると思う。
 また李白も思い出した。音の美しさ。中国語を知らないのに、こういうことを書くのは無責任だが、李白は日本語で読んでも音が美しいと感じる。スピードと軽さがここちよい。これはゲーテも同じ。



 原典を読まないでの感想なのだが。

その二千三百年の高みから
一滴また一滴と      (「端午の「離騒」」)

 この「高い」は私の感じでは「深さ」「深い」。遠い歴史、過去の歴史。つまり「歴史の深部」。

夕焼け雲は
水深くしみ入り 水よりも高い (「サファリパークで野獣主義に目覚める」)

 水の奥底にある、深いという感じ。
 「高い」と「深い」は逆の方向なのに、詩の中で強く結びつく。こういう矛盾した「意味」の同居も、「対句」を動かすときの「枠構造」かもしれない。

 さらに。「海路」のなかに出てくる、「路」と「道」の違いにも興味を持った。「海路」について書きながら、突然、

道は感覚の外にある 夢さえも足を踏み入れられない場所だ

 これは「路」は感覚と接しているということだろうか。それに対して「道」は感覚を超越している。「道」は「論理」(生き方、思想)をあらわしているのか。孔子は「道」をどうつかっていたか。そんなことも、少し考えた。李白を初めとする中国の詩人だけではなく、「論語」とも楊克は通じているかもしれない。簡潔な美しさがある。
 また「路」と「道」の明確な区別があるなら、ここから感覚の美と論理の美の融合という問題を考えてみる必要もあると思う。中国語を知らないのに「音楽」を持ち出すのは問題があると思うのだけれど、音楽を重視した孔子の伝統を、ふと、思うのである。


楊克詩選
楊 克
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