詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎の朗読

2017-04-20 08:56:07 | 詩集
高橋睦郎の朗読

 私は音読(朗読)はしない。また朗読を聞くということもない。けれど、「音(音楽)」を想像するということは、ある。
 04月18日に楊克『楊克詩選』についての座談会(?)があり、たまたまそこで高橋睦郎の朗読を聞いた。その朗読は、私にとっては、想像を絶するものだった。びっくりして椅子から落ちそうになった。

 実際に朗読する前に、ことばと音楽という話題が出た。中国の音は豊かだ、というようなことが語られた。それに対して日本語の響きは音楽性にとぼしいというような意見も出た。私は瞬間的に高橋の詩の音楽はそうではないと思った。我慢できなくなって、「高橋さんは、いまの意見についてどう思いますか? 反論があるんじゃないですか?」と問いかけた。そのとき高橋は「カタローニャ(スペイン)で集いがあり、詩の朗読をしたことがある。翌日、新聞を見ると一面に高橋の詩(朗読)はすばらしかった、という批評が載った。ことばを超えて伝わるものがある」というようなことを語った。それが何か、高橋は具体的には説明しなかったけれど、私は、高橋の音楽はことばを超えて伝わるだろうと思っていたので、納得した。
 で、朗読。
 たしか、「逆光のなかのカポック」を朗読した。一篇だけの朗読であり、私はその場にいたのに、そのタイトルをはっきり思い出せないのは、それだけ衝撃が大きかったということなのだが。
 高橋は、とてもていねいに朗読した。ことばに強弱があり、スピードにも変化があり、「間」も微妙に動いた。しっかりと準備された「芝居」のような感じ、アナウンサーか訳者が「ことばを演じている」という感じ。そこに、鍛えられた「肉声」、ことばを「肉体」で制御しながら、同時に理想の形にととのえていく力を感じた。簡単に言いなおすと、いわゆる「完璧な朗読」というものを聞いた。
 これが、なぜ、私にとって非常な驚きだったかというと。
 私が高橋の詩を読んで(黙読して)聞き取る「音楽」とはまったく違うものだったからだ。私は高橋の詩を読んで感じるのは、「無音の音楽」「詩の音楽」なのだ。絶対的な韻律。肉体を拒絶する韻律。いや、肉体を超越する「意識(精神)の自立した音楽」というものである。「声を超える音楽」と言いなおすことができる。
 「声」を超えるがゆえに、「声」だけが聞こえる。「意味」が聞こえない。「意味」を超えて、ことばがそこにある。そのことばは、高橋を超越して、死に触れている。こういう音楽というのは「国語」を超えると思った。聞く人の母国語が何であれ、拒むことのできない力があると思った。
 これは世界に通じる。
 そう想像していたからこそ、高橋に「母国語(国語)」を超える音楽があるのではないか、そういうことを高橋は体験しているのではないかと思い、高橋に意見を求めたのだった。

 「絶対的な音楽」(肉体を超える音楽)は、しかし、どうやって「声」になるのか。
 これは、高橋に質問したときは、私はまだ考えていなかった。まさか「完璧な朗読」という形で「声」になるとは思わなかった。私の知らない形になってあらわれると思っていた。一瞬、裏切られたような気持ちになった。
 で、これから書くのは、高橋の朗読を聞いたあとで考え始めたことだ。一瞬裏切られた感じ、しかし、すぐにぐいと惹きつけられた。何が起きたのか。
 直感的に言ってしまうと、「絶対的な音楽」(肉体を超える音楽)は「所作」になる。切り詰められた動き。そういうことを突然感じた。あるいは、聞きながら思い出したといえばいいのか。
 「所作」。能の、役者の動き。
 死ととなりあった肉体、あるいは死をくぐりぬけて、再びうごきはじめる最小限の肉体の復活。死んでいるのに、生きている。生き返っている。

 いわゆる「完璧な朗読」と、私は先に書いたが、正しく書き直せば、私が聞いたのは「いわゆる完璧な朗読」を超える音楽。「いわゆる完璧な朗読(アナウンサー、役者の朗読)」と最初に思ったのは、そういうものを聞いたのが初めてだったので、とまどい、知っている身近なものと結びつけてしまったのである。
 能をはじめて観たとき、その動きが動きが限定された不自然なダンス、躍動することを拒絶された肉体の動きという感じで迫ってくるのと似ている。もっと動けるはずなのに、なぜ、少ししか動かないのか、と感じるのに似ている。
 でも、違うのである。
 死は、激しいいのちの存在でもある。いのちは、なまなましい死の噴出でもある。矛盾したものが、「肉体」の内部で拮抗しあい、肉体に最小限の動きを生み出す。それが「所作」なのだ。「いま」、目の前で「肉体」が動いている。しかし、その「肉体」は「いま」をだけ生きているのではなく、生と死の往復という測りきれない時間を(永遠を)動いている。あるいは、測りきれない永遠を生み出しながら動いている。何か、言ったあとに、すぐそのことばを逆に言いなおさないと言ったことにはならないようなことを目の前にあらわしてしまうものが「所作」なのだと思う。

 さらに付け加えると「所作」といいながら、「肉体」といいながら、私が感じるのは「精神の所作」ということでもある。
 「逆光のなかのカポック」に

うす闇が次第に接近してきて 万物が零落すれば
精神の風景のなかで
黒いシルエットが 全てを意味することになる

 という行がある。「万物が零落する」とは完全な死の世界だろう。しかし、そこにも「精神」は生きている。「精神」とはことばである。
 「精神の所作」(ことばの所作)が、とても美しい。それが高橋の朗読である。この美しさは怖いに通じる。怖いは「死」に通じる。それが高橋の朗読だった。

 高橋の朗読は、最初「いわゆる完璧な朗読」という形で、私の想像していたものを裏切り、次にその私の安易な想像を破壊しながら、私の想像していなかった「所作」というものを教えてくれた。想像していたものが破壊され、その奥から新しい何かがあらわれてきた。そういう驚きが、強く強く迫ってきた。
 練習もしないで(たぶん)、いきなり朗読をはじめて、こういう印象を引き起こすというのはどういうことだろう。まるで、高橋自身が書いた詩のようではないか。
 たぶん、どこかで「詩の肉体」がつながっているのだろう。高橋は「詩の肉体」とすばやく結びつくことができる「肉体」を持っている。そして、その「肉体」は、別なことばで言えば「死の肉体」、つまり「生の肉体を超越した肉体」と接触する能力ということかもしれない。私は「死」と高橋を結びつけたい欲望にとらわれているのかもしれない。

 衝撃が強すぎて、私のことばが動かない。
 矛盾したことを書いているかもしれないが、矛盾するしかないこともあると思うので、ことばが動いたままを残しておく。
 また、いつか考えてみたい。高橋自身の作品の朗読を聞けば、また違ったことを考え始めるかもしれない。
在りし、在らまほしかりし三島由紀夫
高橋 睦郎
平凡社

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