ルイス・ブニュエル監督「昼顔」(★★★)
監督 ルイス・ブニュエル 出演 カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン・ソレル、ミシェル・ピッコリ
これはとても不思議な映画である。私だけが感じることなのかもしれないが、一番印象的なのが馬車の鈴の音である。カトリーヌ・ドヌーヴが肉体の内部、あるいは精神の奥の欲望につきうごかされ娼婦になるのだが、セックスシーンは刺激的ではない。まあ、いまの感覚から見ているせいなのかもしれないが、特に、あ、見たい、という気持ちには駆り立てられない。そうではなく、あのシャンシャンシャンシャンという音をもっと聞きたいという気持ちに駆り立てられる。あの音こそがセックス、という感じがするのである。
どういうことなのだろう、としばらく考えてしまった。
シャンシャンシャンシャンという音は、「いま/ここ」から違う場所へ行く「道」なのである。
カトリーヌ・ドヌーヴは娼婦館へ歩いて入ってゆくが、それは「違う場所」ではなくカトリーヌ・ドヌーヴにとっては「同じ場所」なのだろう。――というのは、変な言い方だが、「同じ」というのはつまり、そこでは「想像力」は働いていない。むしろ、そこでは「想像したもの」が現実として動いている。ドヌーヴの肉体は、それまで「想像してきたこと」(男に乱暴に犯され、快楽におぼれる)ということを肉体で実行している。そのとき「想像力」は死んでいる。そして肉体も、何も変わらない。
実際、ね、ドヌーヴははたから見て、変わらないでしょ? 美人で、なんというか、ふしだらな感じが全然しない。欲望におぼれ、だらしなくなったという感じがしないでしょ?完璧な美人、貞淑な女性に見えるでしょ?
ドヌーヴが「変わる」のは「想像力」の中だけ。想像力のなかで、「いま/ここ」ではない人間になる。
こんな言い方が適切かどうかわからないけれど・・・。最後の方で、ドヌーヴは若い男にストーカーされて怯える。この「怯え」は、「いま/ここ」というよりも、「これから」のことだね。夫婦の生活がどうなるか、自分の生活がどうなるか――まだ実現していない「想像力」の中で怯える。「想像力」のなかで起きていることは具体的には描かれないのだけれど、わかるよねえ。
で、その「想像力」の根本は何? 何がドヌーヴを不安にさせる? ことば、声、つまり音だね。――音が、「想像力」を刺激し、ひとを「いま/ここ」から、どこか別の時間、別の空間へ連れてゆく。それは、実際の「肉体関係」よりも刺激的だ。
どんな色っぽいことも起きるのだ。
ストリーの前に戻る形で補足すると、娼婦の館で、ドヌーヴが隣の部屋をのぞく。このとき、ドヌーヴは「見ている」けれど、観客は「聞いている」だけ。観客はのぞくドヌーヴを見て欲情するのではなく、ドヌーヴが聞いている「音」を聞いて、そこに起きていることを想像し、欲情する。
観客は耳でセックスするのである。映画なのに。
うーん。
その耳のセックスの象徴がシャンシャンシャンシャン。
で。
さらに象徴的なのが、ミシェル・ピッコリの最後の行動。ドヌーヴの夫に、ドヌーヴの秘密を語ったのか、語らなかったのか。ドヌーヴにはわからない。ドアの向こう、聞こえないところで2人は会っている。何を話した? 何を話さない? 音が聞こえないので、わからない。そして、そのわからないところで「想像力」が動く。
シャンシャンシャンシャンシャン。どこへ行くんだろう。
そして――と、ここからは強引な我田引水になるのかもしれないけれど。オリベイラ監督の「夜顔」。延々とコンサートのシーンがあったでしょ? 1楽章、ずーっと演奏したでしょ? これはやっぱり「耳」の物語、「耳」の映画なんだなあ、と私は思うのである。「耳」こそがセックスへの入口と考えるひとが、私以外にもいるんだなあ、
監督 ルイス・ブニュエル 出演 カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン・ソレル、ミシェル・ピッコリ
これはとても不思議な映画である。私だけが感じることなのかもしれないが、一番印象的なのが馬車の鈴の音である。カトリーヌ・ドヌーヴが肉体の内部、あるいは精神の奥の欲望につきうごかされ娼婦になるのだが、セックスシーンは刺激的ではない。まあ、いまの感覚から見ているせいなのかもしれないが、特に、あ、見たい、という気持ちには駆り立てられない。そうではなく、あのシャンシャンシャンシャンという音をもっと聞きたいという気持ちに駆り立てられる。あの音こそがセックス、という感じがするのである。
どういうことなのだろう、としばらく考えてしまった。
シャンシャンシャンシャンという音は、「いま/ここ」から違う場所へ行く「道」なのである。
カトリーヌ・ドヌーヴは娼婦館へ歩いて入ってゆくが、それは「違う場所」ではなくカトリーヌ・ドヌーヴにとっては「同じ場所」なのだろう。――というのは、変な言い方だが、「同じ」というのはつまり、そこでは「想像力」は働いていない。むしろ、そこでは「想像したもの」が現実として動いている。ドヌーヴの肉体は、それまで「想像してきたこと」(男に乱暴に犯され、快楽におぼれる)ということを肉体で実行している。そのとき「想像力」は死んでいる。そして肉体も、何も変わらない。
実際、ね、ドヌーヴははたから見て、変わらないでしょ? 美人で、なんというか、ふしだらな感じが全然しない。欲望におぼれ、だらしなくなったという感じがしないでしょ?完璧な美人、貞淑な女性に見えるでしょ?
ドヌーヴが「変わる」のは「想像力」の中だけ。想像力のなかで、「いま/ここ」ではない人間になる。
こんな言い方が適切かどうかわからないけれど・・・。最後の方で、ドヌーヴは若い男にストーカーされて怯える。この「怯え」は、「いま/ここ」というよりも、「これから」のことだね。夫婦の生活がどうなるか、自分の生活がどうなるか――まだ実現していない「想像力」の中で怯える。「想像力」のなかで起きていることは具体的には描かれないのだけれど、わかるよねえ。
で、その「想像力」の根本は何? 何がドヌーヴを不安にさせる? ことば、声、つまり音だね。――音が、「想像力」を刺激し、ひとを「いま/ここ」から、どこか別の時間、別の空間へ連れてゆく。それは、実際の「肉体関係」よりも刺激的だ。
どんな色っぽいことも起きるのだ。
ストリーの前に戻る形で補足すると、娼婦の館で、ドヌーヴが隣の部屋をのぞく。このとき、ドヌーヴは「見ている」けれど、観客は「聞いている」だけ。観客はのぞくドヌーヴを見て欲情するのではなく、ドヌーヴが聞いている「音」を聞いて、そこに起きていることを想像し、欲情する。
観客は耳でセックスするのである。映画なのに。
うーん。
その耳のセックスの象徴がシャンシャンシャンシャン。
で。
さらに象徴的なのが、ミシェル・ピッコリの最後の行動。ドヌーヴの夫に、ドヌーヴの秘密を語ったのか、語らなかったのか。ドヌーヴにはわからない。ドアの向こう、聞こえないところで2人は会っている。何を話した? 何を話さない? 音が聞こえないので、わからない。そして、そのわからないところで「想像力」が動く。
シャンシャンシャンシャンシャン。どこへ行くんだろう。
そして――と、ここからは強引な我田引水になるのかもしれないけれど。オリベイラ監督の「夜顔」。延々とコンサートのシーンがあったでしょ? 1楽章、ずーっと演奏したでしょ? これはやっぱり「耳」の物語、「耳」の映画なんだなあ、と私は思うのである。「耳」こそがセックスへの入口と考えるひとが、私以外にもいるんだなあ、
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