冨上芳秀「零余子御飯」(「イリプスⅡnd」20、2016年10月10日発行)
冨上芳秀「零余子御飯」は、こんな具合に始まる。
なんだか米を研いでいるばかりで、いっこうに「零余子御飯」にたどりつけそうにないのだが、この無意味な描写がなぜか気になった。「きよらかな水」「サラサラ」が繰り返し出てくる。「五、六回」というのも繰り返し出てくる。とても「不経済」な詩である。「米を研ぐ」ですむとこに、こんなにことばをつかうのはなぜだろう。
よくわからない。よくわからないけれど、こんなに「ていねい」に書かれると、私の「肉体」の動きとの「違い」が見えてくる。私の米の研ぎ方と違うと感じてしまう。その違いの中に冨上が、知らず知らずにあらわれてくる。
零余子の説明も、長い。そして、その「長さ」のなかに、私の知っている零余子とは違うものがあらわれてくる。いや、零余子自体は同じなのだが、「ヤマイモのツルの濃い緑の葉っぱの付け根にできる茶色い種」というような言い方の中に、私の知っていることとは「違う」ものが入ってきている。冨上が入ってきている。
冨上は、実際に零余子がなっている「ヤマイモ」のツルを見たことがあるのかな? 本で調べたのかな? 私の家(こども時代の、私の古里での体験)では「ナガイモ」をつくっていたから、零余子をこんな「ていねい」にだれかにわかるように説明する気持ちになれない。
米の研ぎ方もそうだが、そういうことは「肉体」が覚えていることなので、ことばにしないのである。私は。だから、冨上の「レシピ」に驚いてしまうのである。あ、ここに冨上がいるなあ、と思うのである。
まあ、こんなことは、どうでもいいかあ、とは思うのだが、そう思ったとき、描写が突然変わる。
零余子御飯が消えてしまうのである。
突然、漬け物があふれだす。それぞれに色と音がつかいわけられている。「漬け物」とひとまとめにせずに、はっきりと識別されている。まるで、零余子御飯は「漬け物」を食べるための添え物ではないか。省略した部分に零余子御飯の描写もあるのだが、その描写を忘れさせてしまうくらい、情熱を込めて「漬け物」が語られている。省略した零余子御飯の部分は「起承転結」の「転」になっており、この部分を中心に書けばまた違った感想になるのだが、私は「漬け物」の方にびっくりしてしまった。
まるで「主食」が「漬け物」、零余子御飯は「副菜」。
こういう「激変」することばのなかで……。
漬け物に醤油をかけるなんて、私は、ぞっとしてしまうが、これが冨上の嗜好(肉体)なのだと感じる。
で、
この作品が、詩として、いいかどうかは、私にはよくわからないのだが、こんなふうに「テーマ」を忘れて、「私の(日常)生活」の、括弧にいれてしまっている「日常」が突然噴出してくるのは、不思議な「正直」かもしれないなあ、とも思う。
この「正直」をさらけだすために、「きよらかな水」というらゔなことばを繰り返す必要があったのかもしれない。何か、冨上の「肉体」のなかにある「きよらかなもの/正直」へ少しずつ近づいていこうとする感じがあるのかもしれない。無意識に、「大事なもの」にふれる手つきがあらわれているのかもしれない。
米の研ぎ方を読むと、それが冨上の「日常」とは思えない。だから「ぬか漬け」なんかも自分で手入れはしないのだろうけれど、(そういう日常を支えてくれている人に守られながら、安心して)、そうか「漬け物に醤油をかけるのか」という感想を誘うような「無防備」があって、そういうものが「日常」かなあ、なんていうことも思うのである。
「日常」は「無防備」で「正直」。そういうものを「無意識」ではなく、意識的に書くとおもしろくなるかもしれないなあ、とも思うのである。
冨上芳秀「零余子御飯」は、こんな具合に始まる。
肉太の羅臼昆布を一晩水につけて出汁を取りました。その出汁に花
かつおを山のように入れてひと煮たしさせて漉しておきます。お米
にきよらかな水をいれてサラサラと五、六回軽くかきまぜ、水を捨
てます。それからお米を二十回ほどかきまぜて砥ぎます。さらに、
濃い白い米汁を捨て、また、きよらかな水をいれてサラサラと五、
六回軽くかきまぜ、水を捨てます。こんなことを三回ほど繰り返し、
釜のなかにお米を入れます。
なんだか米を研いでいるばかりで、いっこうに「零余子御飯」にたどりつけそうにないのだが、この無意味な描写がなぜか気になった。「きよらかな水」「サラサラ」が繰り返し出てくる。「五、六回」というのも繰り返し出てくる。とても「不経済」な詩である。「米を研ぐ」ですむとこに、こんなにことばをつかうのはなぜだろう。
よくわからない。よくわからないけれど、こんなに「ていねい」に書かれると、私の「肉体」の動きとの「違い」が見えてくる。私の米の研ぎ方と違うと感じてしまう。その違いの中に冨上が、知らず知らずにあらわれてくる。
その釜の表面がおおわれるほどの零余
子をいれます。零余子というのは、ヤマイモのツルの濃い緑の葉っ
ぱの付け根にできる茶色い種のようなもので、これを土に埋めてお
くと芽を出すので、珠芽ともいいます。
零余子の説明も、長い。そして、その「長さ」のなかに、私の知っている零余子とは違うものがあらわれてくる。いや、零余子自体は同じなのだが、「ヤマイモのツルの濃い緑の葉っぱの付け根にできる茶色い種」というような言い方の中に、私の知っていることとは「違う」ものが入ってきている。冨上が入ってきている。
冨上は、実際に零余子がなっている「ヤマイモ」のツルを見たことがあるのかな? 本で調べたのかな? 私の家(こども時代の、私の古里での体験)では「ナガイモ」をつくっていたから、零余子をこんな「ていねい」にだれかにわかるように説明する気持ちになれない。
米の研ぎ方もそうだが、そういうことは「肉体」が覚えていることなので、ことばにしないのである。私は。だから、冨上の「レシピ」に驚いてしまうのである。あ、ここに冨上がいるなあ、と思うのである。
まあ、こんなことは、どうでもいいかあ、とは思うのだが、そう思ったとき、描写が突然変わる。
今日は翡翠のよう
な薄緑色の瓜の漬け物、緑鮮やかな胡瓜の浅漬け、濃い紫色の鮮や
かな茄子の漬け物、赤紫色の茗荷の漬け物、ポリポリ、カリカリ、
しなしな、サリサリと噛み音と歯触りを楽しみながら食べています。
醤油が好きなので紫の濃い漆黒の闇のようにねっとりと香りのよい
湯浅の醤油をかけています。毎日かきまぜているからヌカの状態は
よいようです。微妙な塩加減ですが、塩梅も今のところ申し分ない
のが、私の生活だと言っておきましょう。
零余子御飯が消えてしまうのである。
突然、漬け物があふれだす。それぞれに色と音がつかいわけられている。「漬け物」とひとまとめにせずに、はっきりと識別されている。まるで、零余子御飯は「漬け物」を食べるための添え物ではないか。省略した部分に零余子御飯の描写もあるのだが、その描写を忘れさせてしまうくらい、情熱を込めて「漬け物」が語られている。省略した零余子御飯の部分は「起承転結」の「転」になっており、この部分を中心に書けばまた違った感想になるのだが、私は「漬け物」の方にびっくりしてしまった。
まるで「主食」が「漬け物」、零余子御飯は「副菜」。
こういう「激変」することばのなかで……。
漬け物に醤油をかけるなんて、私は、ぞっとしてしまうが、これが冨上の嗜好(肉体)なのだと感じる。
で、
この作品が、詩として、いいかどうかは、私にはよくわからないのだが、こんなふうに「テーマ」を忘れて、「私の(日常)生活」の、括弧にいれてしまっている「日常」が突然噴出してくるのは、不思議な「正直」かもしれないなあ、とも思う。
この「正直」をさらけだすために、「きよらかな水」というらゔなことばを繰り返す必要があったのかもしれない。何か、冨上の「肉体」のなかにある「きよらかなもの/正直」へ少しずつ近づいていこうとする感じがあるのかもしれない。無意識に、「大事なもの」にふれる手つきがあらわれているのかもしれない。
米の研ぎ方を読むと、それが冨上の「日常」とは思えない。だから「ぬか漬け」なんかも自分で手入れはしないのだろうけれど、(そういう日常を支えてくれている人に守られながら、安心して)、そうか「漬け物に醤油をかけるのか」という感想を誘うような「無防備」があって、そういうものが「日常」かなあ、なんていうことも思うのである。
「日常」は「無防備」で「正直」。そういうものを「無意識」ではなく、意識的に書くとおもしろくなるかもしれないなあ、とも思うのである。
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