監督 ベネット・ミラー
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン
、キャサリン・キーナー
これは書くことをめぐる映画である。書くとは、書くことによって自分自身がかわっていくことである。書くことをとおしてそれまでの自分を越えていくということである。カポーティをとおしてその過程が丁寧に描かれている。こういう変化は、ことばでは説明しやすいが、映像ではむずかしいと思う。しかし、この映画は、そのむずかしいことをなしとげている。
カンザス州で一家4人が斬殺される事件が起きる。カポーティはその事件を書こうと思い立つ。取材のためカンザスを訪れ、捜査当局の人物と会い、被害者の知人と会う。犯人とも対話を繰り返す。犯人の孤独を知るにつれ、それが自分自身の孤独ともつながることを発見する。カポーティは、犯人のこころを描写する(書く)ことをとおして、しだいに犯人そのものになっていく。しかし、決定的な場面で犯人そのものになれない。彼が殺人の理由を語らないからである。それがわからないからである。
しかし、ある日、ついに語る。隠されていたものが明らかになる。このときから、カポーティは、劇的にかわる。身動きがとれなくなる。犯人が殺人犯として処刑されてしまうことがこわくなる。それは孤独で傷つきやすいカポーティのこころそのものが犯人の肉体と一緒に処刑されることになるからだ。だが、同時に、どこかで犯人の処刑をも待ち望む そして、ついにその日はやってくる。カポーティは犯人の処刑に立ち会う。犯人は孤独で傷つきやすいこころのまま死んでいった。その犯人を描いたとき、カポーティの孤独と傷つきやすいこころも死んでしまった。
映画のラストで、カポーティは、彼を支え続けた女性作家から「犯人の命をこころから救おうとはしなかったのではないか。そういうことを望んではいなかったのではないか」というようなことを指摘される。一家4人斬殺事件を描くことで犯人の孤独なこころを描こうとして、それを描いた瞬間、カポーティは犯人とこころを通い合わせるというよりも、その孤独なこころそのものになってしまい、結局のところ、犯人が4人を殺すようにカポーティは犯人を死刑に至らせてしまう。書きたいという欲望が勝手に動いていって、カポーティ自身でおさえきれなくなってしまう。
書くことをとおしてカポーティ自身がそれまでのカポーティではなくなってしまったのである。(カポーティは「冷血」を書いたあと小説が書けなくなった。)
この張りつめた変化を、カメラはとてつもなく静かな映像で表現する。
冒頭、惨劇のあったカンザスの田舎が、朝の張りつめた空気とともに描かれる。空気すら微動だにしないという映像である。人が歩けば、空気そのものが、まるで鉱物のように、肌につきささってくるような硬質な映像である。その美しく静かな風景の奥に、実は無残な他殺体がある。他殺体があるまえと、殺人が起きてしまったあとでも、そういう「事件」とは無関係に、自然は整然としている。まるでなにもなかったかのようである。
しかし、この静かな空気のなかに無残な死体があるのだと思ってみると、張りつめた空気、黒い木々のシルエット、草の深い色--そうしたものすべてが、死体があるがゆえの緊張した静けさなのだとわかる。殺された4人の声にならない悲鳴が空気そのものとなって世界を凍らせているようである。
同じように、ニューヨークでは喧騒の中ではしゃぎ、犯人との対話のときはただただ静かに犯人に接近していくカポーティも、一見しただけでは、その姿勢がかわらないかのようにみえる。いつもとそっくりのカポーティにみえるかもしれない。しかし、犯人のこころに触れたと感じ、そのこころを書けるという歓喜が、ことばを書いているという不気味な歓喜が、その底に隠されているとわかれば、その喧騒も、その静けさも、またまったく違ったものになってみえる。
カポーティは小説の完成した部分を出版社に渡し、朗読会も開く。しかし、犯人にはまだ書いていないと嘘をつく。捜査官にタイトルは「冷血」だと嬉々として告げる。そうした一瞬一瞬に、それが静かな、ほとんど動きのない映像であるにもかかわらずというか、動きなのない映像だからこそ、カポーティが人間として狂い始めているという姿が見える。隠された狂いが見え始める。狂いを映像化するのではなく、狂いを排除し、静かに、張りつめた映像を連続させることで、その奥にひそむ無残な血のようなものを感じさせる。
とりわけ犯人との対話のシーンの静かな描写は、冒頭の張りつめたカンザスの風景を常に思い起こさせ、強烈である。張りつめて動かない映像が、その奥にひそむ劇的変化をつねに暗示するのである。
この冷酷ともいえるカメラに対し、しっかり向き合ったフィリップ・シーモア・ホフマンの演技はすばらしい。無邪気さと冷静さ、無邪気な好奇心と残酷さ、それが現実を深く暴き出し、そのことゆえに狂っていく(いままでの自分の領域をはみだしてしまう)人間をリアルに演じている。
彼を支える女性作家を演じたキャサリン・キーナーもすばらしい。彼女はカポーティと違って書くことによって自分自身を逸脱してしまう人間ではない。常に自分というものがある。自分というよりも、世間と自分をつなぐものがある。世間の中で自分を定着させる力がある。彼女のそういう演技に支えられて、フィリップ・シヒモア・ホフマンの演技がよりいっそう陰影を獲得する。
これは書くことをめぐる映画である。書くとは、書くことによって自分自身がかわっていくことである。書くことをとおしてそれまでの自分を越えていくということである。カポーティをとおしてその過程が丁寧に描かれている。こういう変化は、ことばでは説明しやすいが、映像ではむずかしいと思う。しかし、この映画は、そのむずかしいことをなしとげている。
カンザス州で一家4人が斬殺される事件が起きる。カポーティはその事件を書こうと思い立つ。取材のためカンザスを訪れ、捜査当局の人物と会い、被害者の知人と会う。犯人とも対話を繰り返す。犯人の孤独を知るにつれ、それが自分自身の孤独ともつながることを発見する。カポーティは、犯人のこころを描写する(書く)ことをとおして、しだいに犯人そのものになっていく。しかし、決定的な場面で犯人そのものになれない。彼が殺人の理由を語らないからである。それがわからないからである。
しかし、ある日、ついに語る。隠されていたものが明らかになる。このときから、カポーティは、劇的にかわる。身動きがとれなくなる。犯人が殺人犯として処刑されてしまうことがこわくなる。それは孤独で傷つきやすいカポーティのこころそのものが犯人の肉体と一緒に処刑されることになるからだ。だが、同時に、どこかで犯人の処刑をも待ち望む そして、ついにその日はやってくる。カポーティは犯人の処刑に立ち会う。犯人は孤独で傷つきやすいこころのまま死んでいった。その犯人を描いたとき、カポーティの孤独と傷つきやすいこころも死んでしまった。
映画のラストで、カポーティは、彼を支え続けた女性作家から「犯人の命をこころから救おうとはしなかったのではないか。そういうことを望んではいなかったのではないか」というようなことを指摘される。一家4人斬殺事件を描くことで犯人の孤独なこころを描こうとして、それを描いた瞬間、カポーティは犯人とこころを通い合わせるというよりも、その孤独なこころそのものになってしまい、結局のところ、犯人が4人を殺すようにカポーティは犯人を死刑に至らせてしまう。書きたいという欲望が勝手に動いていって、カポーティ自身でおさえきれなくなってしまう。
書くことをとおしてカポーティ自身がそれまでのカポーティではなくなってしまったのである。(カポーティは「冷血」を書いたあと小説が書けなくなった。)
この張りつめた変化を、カメラはとてつもなく静かな映像で表現する。
冒頭、惨劇のあったカンザスの田舎が、朝の張りつめた空気とともに描かれる。空気すら微動だにしないという映像である。人が歩けば、空気そのものが、まるで鉱物のように、肌につきささってくるような硬質な映像である。その美しく静かな風景の奥に、実は無残な他殺体がある。他殺体があるまえと、殺人が起きてしまったあとでも、そういう「事件」とは無関係に、自然は整然としている。まるでなにもなかったかのようである。
しかし、この静かな空気のなかに無残な死体があるのだと思ってみると、張りつめた空気、黒い木々のシルエット、草の深い色--そうしたものすべてが、死体があるがゆえの緊張した静けさなのだとわかる。殺された4人の声にならない悲鳴が空気そのものとなって世界を凍らせているようである。
同じように、ニューヨークでは喧騒の中ではしゃぎ、犯人との対話のときはただただ静かに犯人に接近していくカポーティも、一見しただけでは、その姿勢がかわらないかのようにみえる。いつもとそっくりのカポーティにみえるかもしれない。しかし、犯人のこころに触れたと感じ、そのこころを書けるという歓喜が、ことばを書いているという不気味な歓喜が、その底に隠されているとわかれば、その喧騒も、その静けさも、またまったく違ったものになってみえる。
カポーティは小説の完成した部分を出版社に渡し、朗読会も開く。しかし、犯人にはまだ書いていないと嘘をつく。捜査官にタイトルは「冷血」だと嬉々として告げる。そうした一瞬一瞬に、それが静かな、ほとんど動きのない映像であるにもかかわらずというか、動きなのない映像だからこそ、カポーティが人間として狂い始めているという姿が見える。隠された狂いが見え始める。狂いを映像化するのではなく、狂いを排除し、静かに、張りつめた映像を連続させることで、その奥にひそむ無残な血のようなものを感じさせる。
とりわけ犯人との対話のシーンの静かな描写は、冒頭の張りつめたカンザスの風景を常に思い起こさせ、強烈である。張りつめて動かない映像が、その奥にひそむ劇的変化をつねに暗示するのである。
この冷酷ともいえるカメラに対し、しっかり向き合ったフィリップ・シーモア・ホフマンの演技はすばらしい。無邪気さと冷静さ、無邪気な好奇心と残酷さ、それが現実を深く暴き出し、そのことゆえに狂っていく(いままでの自分の領域をはみだしてしまう)人間をリアルに演じている。
彼を支える女性作家を演じたキャサリン・キーナーもすばらしい。彼女はカポーティと違って書くことによって自分自身を逸脱してしまう人間ではない。常に自分というものがある。自分というよりも、世間と自分をつなぐものがある。世間の中で自分を定着させる力がある。彼女のそういう演技に支えられて、フィリップ・シヒモア・ホフマンの演技がよりいっそう陰影を獲得する。
『カポーティ』はホフマンのあのしゃべり方が不自然だと誰かが言ってましたが、私はほかの映画のホフマン(MI3でしたか?)は見ていないので、あの演技は気になりませんでした。というか絶賛です。
以前、『記憶の棘』で、TBをいただきました。
このレビューを読んで、とっても嬉しくなりました。
この映画、映像で“読ませる”、圧巻の作品でしたね!
とても共感しました。
この作品は、とても退屈だった、という人が多く、悲しい気持ちでいました。
>この作品は、後の文学界を変えてゆくだろう
という、編集者の一言にはとてつなく感動してしまいました!