goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』(思潮社、2016年08月25日発行)

2016-10-10 12:00:11 | 詩集
ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』(縄田雄二編訳、磯崎康太郎・安川晴基訳)(思潮社、2016年08月25日発行)

 ドゥルス・グリューンバイン『詩と記憶』は「詩文集」。エッセイ(評論?)と詩がある。
 「原体験--ポンペイ」(『最初の年--ベルリンの手記』より)は詩のように美しい。その美しい部分は、ちょっと目をつぶって、私が傍線を引いたのは次のことば。

ポンペイの没落と復活から何を学べるのか。少なくとも以下のことだ。お前たちの望むようにせよ。悲しみ、騙し合い、貪り、売春し、研究し、ギャンブルし、商売し、祈り、陰謀を企てよ。だが、どうか残すのだ。語られるに値するだけの歴史は。

 ここに書かれている「歴史」は、いわゆる英雄が何年にどこで何をしたかではない。「悲しみ、騙し合い、貪り、売春し、研究し、ギャンブルし、商売し、祈り、陰謀を企て」ることの全てが「歴史」である。それが「記録」されたときに「歴史」になる。言い換えると、

語られるに値するだけの「記録」

 を残せ、と言っているのである。「記録」は「絵」であったり「ことば」だったり、あるいは「売春宿」だったりする。それを、ひとがもう一度見つめなおすとき、そこから「詩」が動き出すのだ。
 詩とは、ようするに、「記録/記憶」の掘り起こしのことである。

 このことを、「記憶の詩学」(わがバベルの脳)で、次のように言いなおしている。

 抒情詩のテキストは、内なるまなざしの記録である。
 その記録の方法を規定するのは、身体である。(略)詩は、生理的に生じた短絡的発送が継起するなかで、思考というものを実演するからである。つねに(自らの身体の、人類の身体、すなわち歴史の)時代をめぐる旅の途上にありつつ、思考は詩のなかで停留を、軽薄な語り、浅ましい見解のなかでの宿りを、人生が目指すところの記号と形象の舞台を、見いだすのだ。

 私は「身体」ということばをつかわないので、「肉体」と思って読み直すのだが。
 ここに書かれていることを私なりに言いなおせば、こういうことになる。つまり、あることば(記録)に触れる。そうすると、「肉体」が反応する。売春宿の「記録」を読めば、男なら勃起したり、むらむらしたりする。手淫をしてしまうかもしれない。それは、それを「記録」したものの「思想(あらゆる行動は思想である)」を自分で「実演」しなおすことである。それはそして単にその「記録」を残した人の「思想/肉体」を「実演」しなおすことではなく、「人類」、つまり「歴史」を「実演」しなおすことである。
 「内なるまなざし」とは「肉体」のなかに引き継がれている人間の、本能/欲望の遺伝子のことである。
 このとき、真に「実演」するに値するものは、いま、日常的に「世間」に流通しているものではなく、忘れられたものの方である。あ、そういうものがあった、と思い出させてくれる。そういう「肉体」の動かし方があった、そのとき考えはこんなふうに動く、感情はこう動くのかということが「実演」するのと同時に起きる。自分の「肉体」のなかに生き続けている人間の「本能/欲望」のようなものが、もう一度生まれてくる。言い換えると、「歴史」が「いま/ここ」に「肉体」を突き破って生まれてくる。人間は、そのとき「生まれ変わる」。「本能/欲望」として。
 「売春宿」を例にとると、それは「浅ましい欲望/浅ましい見解」ということになるかもしれないが、こういう言い方は「客観的」すぎて「真実」からは遠い。「肉体」にとって、いま、生きていることが重要であって、生きているとき「浅ましい」というような批評はばかげた「ひがみ」にしかすぎない。
 ひとはただ予測不能を生きるだけなのだ。予測不能だけれど、それは「歴史」(記憶/記録)と通じており、その「記憶(歴史)」を自分自身の「肉体」で突き破る(実演する)とき、時間が動き出し、人間は新しく「生まれる」ということだろう。

 これは、まったくその通りだと思う。私も、いつもそう感じている。というか、私がいつも感じていることへと、ドゥルス・グリューンバインのことばを引っぱってきて、「誤読」しているだけなのだが。

 さて。

 「エッセイ」に共感したが、詩はどうか。
 ちょっと困った。ドゥルス・グリューンバインが「身体」と呼んでいたものになかなか出合えない。「歴史」がなかなか「身体(肉体)」と結びつかない。
 たとえば「セネカに宛てて--P.S.」。

あんなにも雄弁であったお前の魂のうちに遺ったのは上々のラテン語のみ。
お前の肉は魔法をかけたかのように消えた。しかし文字は明かす。
そうとお前は初めから分かっていた。文章こそはお前の墓表。

 「肉」が出てくる。「消える」が出てくる。これは「実演」できない。他人の「実演」を見るばかりである。つまり「頭」で「実演」するのである。「分かっていた」ということばもあるが、これも「肉体」で「実演」するのではなく「頭」で「実演/演習?」するもの。妙に「頭」が前に出てきてしまっている。
 これはエッセイに書いていることと違うんじゃないだろうか。

人神の間のおぞましきことどもを戯曲に仕立てて
並ぶ者の無かったお前よ。われらあわれな罪びとに告げよ。
静穏であれば滅びずに済むかを。
静かでいれば静かに朽ちるのみではあるまいか。

 ここでも「肉体」があいまいである。直前に「胃も痛まず」というようなことばがあるが、そんなふうに「肉体」を刺戟してこない。これでは「セネカの記録/記憶」を「実演」できない。

人の心臓を見たことがあるか。
血をはらみ拍動する塊--底なしの樽を。
これぞ皮下で闘い合う神経。
脈打つ所では思考は美しき夢に過ぎぬ。

 そうか、「思考」か、と思うのである。ドゥルス・グリューンバインは「肉体」ではなく「身体」ということばをつかっていたが(訳文だが)、「身体」というとき、そこには「思考」が常に対峙しているのか。「身体」は「血をはらみ拍動する」。「思考」は血とは無縁の形で「夢」をみる。いいかえると「身体」から離れる。「身体」から離れて生きる。そして、生き延びる。「ことば」となって。
 でも、こういう考え方だと「身体」というのは「思考/ことば」を引き立てるためのバックグラウンドになってしまう。それでいいのかな?
 ちょっとよくわからない。
 わからないけれど、つぎの三行はとても好きだ。

早すぎた瀉血。爾来お前の著作にはネロの名が粘着している。
焼け焦げのように、アスファルトの如くに。
憾むべし、思想より伝説の方がはるかにねばるのだ。

 「粘着している」「ねばる」。その動詞が「血」だけではなく、「焼け焦げ」た「アスファルト」というもので「実演」されている。それは「もの(アスファルト)」が単に「実演」しているのではなく、固まっていないアスファルトに触れたことのあるドゥルス・グリューンバインの「肉体」が「ねばる/粘着する」を「実演」し、「実感」している。「ねばる/粘着する」が「思考」ではなく、「肉体」そのものになって動いている。
 こういう行をもっと読みたいなあ、と思った。

詩と記憶 ドゥルス・グリューンバイン詩文集
ドゥルス・グリューンバイン
思潮社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ポール・グリーングラス監督... | トップ | 自民党憲法改正草案を読む/... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事