
監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン、ペネロペ・クルス、アレック・ボールドウィン
ウディ・アレンは女優の魅力を引き出すのがとてもうまい。女性が見てどう感じるかわからないが、私から見ると、ウディ・アレンの映画に登場する女優はとても自然だ。役者というよりも、「そこにいるだれか」という感じ。映画を見ていることを忘れ、女優であることを忘れ、そこにいる女にひかれる。女優を「女」にしてしまう。
こういう映画ではペネロペ・クルスは損をしている。美しすぎて、ふつうの女性の役をもらえない。「そこにいるだれか」というのはむりで、「どこにいても目立つだれか」という役を演じるしかない。
いちばん得をしているのがウディ・アレンの妻を演じた女優。ウディ・アレンに好きなことをさせながら、「私がついていないとどうしようもないんだから」という感じで見下している。長い夫婦生活のなかで、自然に身についた夫操縦法なのだが、これが実にいい。まわりの人間には、「夫はばかなんだ」と伝えることで、まわりを安心させる。「この場は私に任せておいて」という感じ。受けているようで、攻めている。ひとつの行動のなかに、受けと攻めの両面があるので、全体の調子がそこに収斂していく。目立つ役どころではないのだけれど、いやあ、すごいなあ。自分の連れ合いにどうかととわれると、まあ、答えに困るのだけれど、見ていて安心するね。あ、こういう人間っているなあ、こういう具合に状況をコントロールする人間がいるなあ、ということを自然に感じさせてくれる。
役者志望の女と、田舎から新婚旅行でやってきた女--このふたりもすばらしい。ふたりの名前を私は知らないのだけれど(はじめて見た、と思う)、とても魅力的だ。とりたてて美人ではないのだが、ひとりは見栄っ張りの、いわば「見栄」の部分で男をひきつける。男の「見栄」をくすぐる、と言い換えることもできる。もうひとりは、うぶな感じで男をひきつける。
二人のうち役者志望の女の方が、私にはより魅力的に見えのだが……。この女優のやっている演技はかなり複雑である。男の心を引きつけるために、知ったかぶりをするのだが、知ったかぶりをしているということがわからないといけない。あれ、それ、ほんとう? 芝居じゃない? 芝居なのだけれど、いいか、その嘘にひっかかってみるか、という一種の矛盾した気持ちをおこさないといけない。見ている観客にもわからないといけない。
こんな役は、うまくやるのはむずかしいと思う。うまくやればやるほど、観客はそれが役ではなく、彼女はそういう人間なのかもしれないと思い込むからね。この女、美人じゃないということを自覚していて、どうやれば男ごころをひきつけられるかを、ずっーと考えて芝居しているんだな、と思い込んでしまうからね。(ペネロペ・クルスのやっている役なら、初めから虚構の演技とわかる。誰もそれがペネロペ・クロスのほんとうの姿とは思わないけれど……)
そういう変な(?)役どころなのだけれど、変な女なのだけれど、そういう女にだまされてみるのもいいかなあ、などと思ってしまうのである。彼女が女優であることを忘れ、そういう状況になったら、どうするかなあという思いに誘われてしまうのである。
うーん、どうしてかなあ。
ウディ・アレンが、女優たちに「受け」の演技をさせているからである。「受け」の演技を引き出しているからである。「受け」というよりもさらに進んで「引き」の演技といった方がいいのかもしれない。女優たちが男優たちがどんどん自己主張しやすいようにする。ウディ・アレンの妻の役どころそのままに、男を遊ばせるのである。その気にさせるのである。
これは男優の演技と比べるとはっきりするかもしれない。ウディ・アレンの映画では、男優はなかなか魅力的にならない。受けの演技をさせてもらえない。女を、あるいは男をでもいいのだが、人間を遊ばせる演技をさせてもらえない。アレック・ボールドウィンのやった役がそうだが、(ウディ・アレンの役もそうだが)、状況を批判したり、自分で状況を変えるために何かをしようとする。自分の主張(遊び)にのめりこむ。そのために人間のひろがり(幅)が小さくなる。受け止めてくれるひとがいて、はじめて世界が生まれる。
この映画では、ひとり、しがないサラリーマンをやった男が、状況的に「受け」にまわる役どころで、そこはほんとうに「見せ場」なのだけれど(だからこそ、イタリア人をつかっているのだけれど)、うーん、「受け」きれていない。つまり「受け」が、まわりを遊ばせていない。まわりの遊びを引き出すところにはたどりついていない。
それは基本的にウディ・アレンが攻めの人間だからだろう。攻める(批判する)という形で世界をみつめるからだろう。ウディ・アレンは世界を批判することで自己表現をするけれど、世界をそのまま受け入れることで自己実現をしない。受け入れてくれる人間を魅力的に表現することで、受け入れてくれる人を探しているということかもしれない。
あ、映画の感想になっていないか。これでは。
まあ、ローマを舞台に、人間の駆け引き(恋の駆け引き)が描かれているのだが、駆け引きのバランスがうまくかみ合わないのだね。演技が偏っている(人間の描き方が偏っている)からかもしれない。ウディ・アレンはローマはこういうところと切り取る形で要約するが、ローマのすべてを受け入れてはいない。
先日見たフランチェスコ・ブルーニ監督「ブルーノのしあわせガイド」では、高校生は自分で落第を選ぶことで「ローマ帝国の時間感覚」を引き受けていた。ローマを受け入れていた。
ウディ・アレンはパリッ子にはなれてもローマッ子にはなれないね。
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