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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小山田浩子「穴」

2014-02-13 09:25:52 | その他(音楽、小説etc)
小山田浩子「穴」(「文藝春秋」2014年03月号)

 小山田浩子「穴」は第百五十回芥川賞受賞作品。私は眼が悪いので、最近はほとんど小説を読んでいない。芥川賞の発表のときに文藝春秋を買って読む程度である。だから、いまの小説の「文体」というものになじんでいないのだけれど……。
 読みはじめてすぐ、つらいなあ、と感じた。読みづらい。

 私は夫とこの街に引っ越してきた。五月末に夫に転勤の辞令が出、その異動先が同じ県内だがかなり県境に近い、田舎の営業所だったためだ。営業所のある市が夫の実家のある土地だったので、手頃な物件でも知らないかと夫が姑に電話をかけた。

 書き出しだが、最初の文は読めたが、あとは、うーん、つらい。ことばに「音楽」がない。「音楽」のかわりに、「説明」がある。「転勤」「辞令」「異動」は、同じことをいいえ変えているにすぎない。「県内」「県境に近い」「田舎」も、私は同じことを書いていると感じる。ことばが進んでゆかない。停滞している。しかもその停滞が、「名詞」の言い換えにすぎない。動いているのに、動いても動いても同じところにいるという不条理な停滞ではなく、動きはまったくないのに「名詞」を書き換えることで動いているように見せかけている。「営業所のある市」「夫の実家のある土地」も同じ。情報量が少ないのに情報量が多いふうに装っている。情報の少なさを「名詞」の書き換えでごまかしている。
 こんな比較は間違っているのかもしれないが、森鴎外や志賀直哉だったら半分のことばで書いてしまうだろう。小山田の文章は「散文」になっていない。「事実」をつかんで、「事実」を積み重ねて進むという散文精神が抜け落ちている。

 「じゃあうちの隣に住めば?」「隣?」「うちの借家があるじゃない。ついこの間空いたのよ」姑の声はよく通り、夫の脇にすわっている私にまでその声が聞こえた。

 「名詞」が重複しない場合でも、同じである。
 「ついこの間」は、ひどく説明的である。読んでいて、いらいらしてしまうくらい、もたついていて、とても母と息子のやりとりとは思えない。「ついこの間」なんて説明はしてもらわなくてもいい。ないほうが「ついこの間(突然)」という感じがわかる。書かなくていいことが、小山田の文章には多すぎる。「声はよく通り」「脇にすわっていた私にまで(略)聞こえた」も、書かなくてもわかることがわざわざ書かれている。省略したのは「その声が」ということばだが、ないほうがことばの運びが速くて、軽く読めるでしょ?
 まあ、速い文体を避けた。現実にはりつくような文体を作り上げた、と言えるのかもしれないけれど、私には、ただぎっしりとことばを埋めたみたという感じしかないなあ。
 ことばに飛躍がなく、飛躍のつくりだすリズムがなく、ことばが「音楽」として響かない。私は黙読しかしないが、このしつこい説明にげんなりした。声で聞いたりしたら、さらにげんなりするだろう。小山田は自分の書いたものを声にして読んでみたことがあるのだろうか、と疑問に思った。こんなにまだるっこしくては、舌がもつれてしまう。のどが疲れてしまう。

 私は卓上のメモに『一戸建て?』と書いて夫に見せた。夫はうなずき、手を伸ばしてそのメモに『にかいだて』と書いた。

 これは映画の一シーンにすればおもしろいだろうなあと思う。でも、小山田のことばではスピードが遅すぎて、影像がスローモーションになってしまう。「書いて夫に見せた」と書かなくても「書いた」で十分夫に見せたことはわかる。夫に見せたくて書いているのだから「見せた」と書かれると、「シーン」を見ている(現場に立ち会っている)というよりも、ただことばを聞かされていると感じてしまう。「事実」を明確にするためにことばを動かすというより、ことばを動かすために「現実」を利用しているという感じ。「小説」を読んでいるというより、小説になる前の「未整理のことば」を読んでいる感じといってもいい。「手を伸ばして……」の部分で言えば「そのメモに」がのろのろしすぎている。説明が多すぎて、つまずいてしまう。せっかく『にかいだて』とひらがなまでつかって「現実」を明確にしているのに、「そのメモに」などと書いてしまう神経がわからない。「そのメモ」以外の何に書くのだろう。手まで伸ばしているのに。

 私は卓上のメモに『一戸建て?』と書いた。夫はうなずき、手を伸ばして『にかいだて』と書いた。

 省くと速くなるでしょ? 「書いた」という動詞が「見せるために」(声に出して聞く替わりに)を含んでいることは、状況から「わかる」でしょ? 「肉体」で「わかる」ことを小山田はことばで説明するから、その説明を読んでいる間、「肉体」の動きがスローモーションになる。「肉体」のなかで融合しているものを、わざわざ「頭」で分離して、文字を読まされている感じがしてしまう。

 こんな文章が芥川賞でいいのかなあ。

 好意的に読めば。
 このくだくだしい文体、現実に触れるというよりも、現実の表面を何度も何度もなぞることで、ことばと現実の間に何も入れないようにしておいて(何も紛れ込ませないようにしておいて)、「黒い獣」「穴」という非現実(説明を省略した何か)を印象づける--ということかもしれない。
 こりゃあ、知能犯だね。確信犯--ととらえれば、まあ、そうなのかもしれないが、でも、選考委員はこれくらいの「確信犯」に「まいりました。おみごと」と言ったわけ? 選考委員の理想の文体(?)は、こういう「頭でっかち」のしつこさ?
 なんだかげんなりするなあ。
 あ、私の感想は、ぜんぜん好意的に読めば、になっていないね。好意的になろうにも、書くとすぐにいやになってしまう。
 でも、一か所くらいは、おもしろいと書いておこう。
 葬式の「一本花」の部分、参列した老人のことば、

「お花がね、こういう時は一本。いっぽんにするのよ。それがこのへんの決まりなのよ」「よそじゃ知らんが」「あらよそじゃ違うの?」「よそのことなんか知らんが」「とにかくいっぽんばなよ」

 だけはおもしろかった。ここには「よそじゃ知らんが」「よそのことなんか知らんが」と、ほぼ同じことばが繰り返されている。しかし、ことばは同じなのに「感情」がまったく違っている。「感情」が違うことで、ことばに「音楽」をつくりだしている。この瞬間に、ことばでは説明できない「肉体」がみえる。あ、「わかる」と「肉体」が納得する。こういう言い方を、ひとはするものである。そして、そういう言い方をするときの「人間」の顔や形がぱっと浮かんでくる。そういうことを言う「おばあさん」を「肉体」が思い出してしまう。
 小説とは、たぶん、同じことばなのに「意味が違う」と感じさせることばの運動のことなのだ。「意味が違う」のに、説明抜きで「わかる」と感じさせてくれることばなのだ。ここに書かれている「会話」のように。
 この、ことばにならない「わかる」が響きあって、小説の「音楽」をつくる。それを聞くのが「小説」の楽しみというものだ。



 田中慎也が芥川賞をとった時、私はその文体を古くさいと批判したが、あれは間違いだったなあと思う。古くさいは古くさいが、音楽がある。

小山田 浩子
新潮社

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