goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ステファヌ・プリゼ監督「愛されるために、ここにいる」

2007-03-19 22:13:06 | 映画
監督 ステファヌ・プリゼ 出演 パトリック・シェネ、アンヌ・コンシニ

 タンゴを踊るうちに男と女の距離がしだいに近付いて行く。音楽の使い方が変化がとてもいい。
 とてもすばらしいシーンが三つある。
 一つ目。
 最初に男と女が近付いたあと……。女が男に「車で送ってくれ」と頼む。その車内。タンゴの曲は流れていない。流れていなけれども、とても小さく幻のように、リズムが聞こえる。そんな感じで男と女の様子が映し出される。そのふたりの胸の中で、静かに思いだされているメロディーとリズム。それが胸に響いてくる。あ、どこかで絶対、極小の音がなっているはず、と耳をすます。しかし、耳からは聞こえない。私の体のなかから聞こえる。この瞬間、私は、この映画が好きになった。
 音楽なしで音楽を感じさせる。そういうことができる監督であり、また出演者だ。
 映画の醍醐味である。
 あとは、加速度的に突き動かされていくだけだ。
 二つ目。
 2度目の車内。男と女はタンゴのステージを見た。男と女が激しい情熱を隠しながら踊っている。その音楽が車内に鳴り響く。もちろん、これはカーステレオではなく、男と女の内部で鳴り響いている音楽が、そのまま映画として再現されている。このシーンは、先に書いた音のない音楽があってこそ、とても感動的だ。1回目の車内では音として表現していないのに、それが音として聞こえる。それがあるからこそ、2回目が、いわばバックグラウンドミュージックなのにバックグラウンドミュージックではなく、心そこから響いている音楽だと感じられるのだ。
 三つ目。
 いったん不仲になった男と女がよりを戻す。そしてタンゴを踊る。部屋の中。このときの音楽は? レコードをかけている? かけていない? わからない。わからなくていいのである。
 実際にレコードで音楽が鳴っていようが、あるいは鳴っていまいが同じことなのである。二人のなかには音楽が存在し、二人はそれを単に思いだして聞くだけではなく、それにあわせてダンスができる。耳をすまし、幻の音楽を聴くことはだれにでもできる。しかし、その幻の音楽を共有し、それにあわせてタンゴを踊ることができるのは、愛し合っている二人だけである。数も数えなければステップもことばにしない。体が共鳴している。
 そして、このときわかるのだ。
 レコードは鳴っていない、と。たとえ鳴っていたとしても、二人はレコードの音楽を聴いて、それにあわせて踊っているわけではない。二人のなかにある音楽にあわせて踊っているのだから。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 粒来哲蔵「百舌(もず)」 | トップ | 清岡卓行『ふしぎな鏡の店』再読 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事