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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(29)中井久夫訳

2008-12-07 00:07:43 | リッツォス(中井久夫訳)
残骸  リッツォス(中井久夫訳)

おれにゃ何もない。おれは何も思い出せない。そう彼は言った。
季節を送り迎えした。あせた色ばかり。
真昼の果物の腐りゆく匂い。目を刺す白い漆食いのギラツキ。
ある晩、きみがマッチを擦った時、きみの耳の下にちらりと小さな影が見えた。
あの影。これだけ。
後はもう、樹の下を吹く風が遠く吹き飛ばしてしまった。
紙ナプキンと葡萄の葉といっしょに--。



 この詩の構造は「老漁夫」に似ている。「おれ」とは「彼」である。そして、「彼」とは実は「私」なのである。(「老漁夫」が結局は街でみかけた老漁夫というよりも、老漁夫に託されたリッツォスであるように。)
 「私」を「彼」と第三者のように描く。「彼」には「私」が投影されているのである。そんなふうにして、リッツォスは自分を自分から分離して眺める。自分を「ふたつ」にする。投影した影と、それをみつめる詩人とに。
 自分が体験したことを「私」を主人公にして書くにはつらすぎる。だから、それを他人に起きたことのようにして書く。
 --ただそれだけではないかもしれない。
 リッツォスの生きた時代が、ここに反映しているかもしれない。内戦のギリシア。そこでは自分が経験したことを自分の感じたこととして書くのは危険なことかもしれない。また、友人に起きたことを友人の体験として書くことも危険かもしれない。誰でもない存在。架空の第三者の体験として書くことしかできないかもしれない。そういうもどかしさ、そういうさびしさ。そのなかで、ふるえる孤独なこころが、いつでもリッツォスのことばの中にあるのかもしれない。

ある晩、きみがマッチを擦った時、きみの耳の下にちらりと小さな影が見えた。

 それにしても、なんと美しい1行だろう。他者を、それも自分にとっての大切な他者をそういう細部でしっかりとつなぎとめる。世界に存在させる。世界には大きな力が暴れまわっている。その力に消されてしまう小さな存在。その小ささの中にある美。その美とふれあうこころの、その悲しみ。孤独。透明な透明な抒情。清潔な抒情。




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