アレクサンドル・ヤーコヴレヴィチは部屋の隅で明るく電灯に照らされた自分の机に向かって、ときおり咳払いをしながら、仕事をしていた。彼はドイツの出版社に頼まれて、ロシア語の専門用語辞典を編纂していた。小皿の上で、サクランボの砂糖煮(ヴァレーニュ)の跡が灰と混じり合っている。
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ふいに登場してくる「小皿の上で、サクランボの砂糖煮(ヴァレーニュ)の跡が灰と混じり合っている。」という文章に驚く。「サクランボの砂糖煮」についての説明は何もない。「灰」についても何の説明もない。何もないのだけれど、私には「わかる」。もちろん、この「わかる」は「誤読」かもしれないが、「わかる」のである。
辞書の編纂をしながら、サクランボの砂糖煮を食べたのだ。その小皿が机の上に残っている。そして、その小皿を灰皿にして、アレクサンドル・ヤーコヴレヴィチは煙草を吸ったのだ。煙草の灰は、サクランボの砂糖煮の汁(?)の跡の形でこびりついている。
何の説明もないだけに、その「存在」が、独立して、そこにある。「世界」と切り離されて、それでいて「世界」の中心のようにして、そこにある。
こういうところに、私は「詩」を感じる。そして、そういう瞬間がとても好きだ。
引用した文章は主人公が参加している詩のサークルで出会った女性について書いている部分に出てくる。彼女は、死んだ息子と主人公が似ていると感じ、主人公にあれこれと話しかけてくる。それが、まあ、うるさいなあ、という感じで描写される。人間関係が、うるさい。つまり、「気持ち」がうるさい。
そのうるささを吹っ飛ばすようにして、突然割り込んできた「もの」。しかも、その「もの」には不思議な「過去」というか「時間」というか「歴史」がある。手触りがある。誰でも、食器が汚れる瞬間を知っている。小皿でなければ、たとえばコーヒーカップが、あるいは飲料水のボトルが、空き缶が「灰皿」になって汚れることを知っている。そこには単に「もの」の汚れだけではなく、それを汚してしまう「ひと」の「暮らし」がある。「暮らし」が「もの」として、そこに生きている。
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