「現代詩手帖」12月号(30)(思潮社、2022年12月1日発行)
小野絵里華「湯屋へ行く」。山の中の露天風呂の、女たち。とはいうものの、描かれるのは「白いふくらはぎ」だけ。いや、その「白」だけと言ってもいいのかもしれない。
湯場の中ではすべてのふくらはぎが白く見える。光の加減とか夜の深さとか午前中にどんな空気を食べたとか、そんなことでふくらはぎの白さは変わる。
午前中に食べたものが「空気」ではなく、ほんとうの食べ物(料理)だったら、もっと生々しくなったと思う。ここが、この詩の唯一、私が残念だと感じるところ。せっかく「白」が変わるのだから、「空気」というような抽象に逃げてしまっては、「白」が単純な「透明」になってしまう。「湯気」のようなものになってしまう。「湯気」ではなく、手で触れることができるものであってほしい。
で、なぜ、そこにこだわるかといえば。
この白いふくらはぎはわたしがいなくてはやってこなかったことなので
という詩の核心とかかわるからだ。すべては「わたしがいなくてはやってこなかった」。「わたし」こそが詩なのである。その「わたし」が「空気」を食べているのでは、人間ではなく、女ではなく、「仙人」になってしまう。それでは「寓話」。何か機会があれば、「空気」をぜひ別のことばに変えてほしい。「空気」ではなく、もっと「生身の肉体」が食べるものだったら(食べ物によっても違うと思うが)、この詩はほんとうに傑作になる。
「現代詩手帖12月号」のアンソロジーのなかでいちばん傑作になると思う。「空気」のままでも、これまで読んできたなかでは、この詩がいちばんおもしろい。おもしろいと感じるからこそ、ここの「空気」がとても悔しい。
「わざと」書き始めたものが「わざわざ」の深みにたどりつくのに、それを「わざと」に返してしまう。それが、悔しい。
(私の引用では、わかりにくいかもしれない。「わざと」わかりにくくしているのである。私は「あえて」一部しか引用しなかったが、それはこの詩を、ぜひ、読んでほしいと思うからだ。私のことばで汚したくない。詩は、詩集『エリカについて』に収録。「現代詩手帖」のアンソロジーには出版社は明記されていないので、わからない。)
菊地唯子「青へ」。湯屋ではなく、地底湖へ行く。それも「秘境」かもしれないが、抽象的。だから、
地底湖のゆらめく青に
一千年染められてあれ
そこまでおりてゆくから
「わたしよ」
「わたし」が鍵括弧のなかにはいり、呼びかけの対象になっているが、これは「一千年」と「午前中に/食べた」の違いだね。菊地は「一千年」も「青」も見えると言うかもしれないが、小野の「白いふくらはぎ/ふくらはぎの白」を見たあとでは、その「青」に「肉眼」では見えない。まあ、「肉眼では見えないものを描いているのだ」と菊地は反論するかもしれない。
しかし。
小野の「白いふくらはぎ(ふくらはぎの白)」も、ほんとうは「肉眼」には見えない。小野がことばにすることによって、私が「肉眼で見ることができる」と感じているだけなのだ。「肉眼では見えない」からこそ、意識の肉体、ことばの肉体にしか見えないからこそ、小野は何度も何度も繰り返して「白いふくらはぎ」を書く。そこに「白いふくらはぎ」を存在させるために。
そうやって、世界が「白いふくらはぎ」にかわってしまう。その瞬間が詩なのだと、私は信じている。
橋場仁奈「舌の先でさわって」は、小野の世界の描き方を少しだけ思い出させる。歯を抜いたあとのことを書いている。
舌の先を尖らせておよがせて歯茎のぬれたぶよぶよの
縫われている傷口の糸の切れはしを舌でめくってさわって
くゆらせて 裏、表、うらおもてうらうらと
ぬかれた歯のすでにないかってそこにあったはずの
まぼろしの歯のありかをさがしてさぐって
口をとじて口をとじてあまく腐って生あたたかな
小野が湯屋の湯船のなかから出て行かなかったように、「白いふくらはぎ」から離れなかったように、橋場も口のなか、歯茎、舌、存在しない歯から離れずにことばを動かせば「わざと」が「わざわざ」に変わるのに、途中から違ってしまう。最後の一行で「まぼろしの歯のありかを舌でさわって」と出てくるけれど、これが逆に、途中からそれを書くのをやめてしまったじゃないか、という批判を呼び覚ます。途中で方向を変えたのなら、その変えた先を突き破って、もっと遠くまで行けば、まだおもしろいかもしれない。引き返すくらいなら(引き返して、その結果、元の世界が変わっていまっているのならそれもいいだろうけれど)、新しい世界へ行ったなんて書かない方がいい。単なる「ことば」、言い換えると「嘘」になってしまう。
動き始めた詩を「わざわざ」壊さなくてもいい。
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