尾久守侑『悪意Q47』(思潮社、2020年09月01日発行)
尾久守侑『悪意Q47』のQ。私はどうしても魯迅の「阿Q正伝」を思い出してしまう。尾久守侑が魯迅やカミュを意識しているかどうかはわからないが、私は「内容」というよりも「文体」に魯迅やカミュの影響のようなものを感じる。ことばが短く、平易で、しかもリズムがある。「悪意Q47」について書くべきなのかもしれないが、ちょっと目の調子がよくないので手抜きして(?)「反故」。(尾久さん、ごめんなさいね。)
市大の学生さんが遊びに来るというので、昼過ぎから予定を空けて待っていた。
午を食べたあと暫く眠って、はっと丸窓から外を覗くと日がもう沈みかけていた。
寝過ごすことは滅多にないので、無闇に立ったり座ったりして落ち着かない。妻
をよぶと、皆帰ったという。私がいなくて随分残念がったろうねと云うと、なに
をおっしゃるんですか、あなた散々話をして、それで厭になってみんな帰ったん
ですわなどと云う。
なにが書いてあるというわけでもないが(というと尾久は起こるかもしれないが)、なにがという「内容」よりも、私は文章のリズムに惹かれて読んでいる。こういうことは最近は非常に少ない。そして「内容」を読むのではないと書いたことと矛盾するかもしれないが、ここに書かれていることは「正確」だと感じる。「正確さ」に対して信頼が生まれる。それは、たとえば句読点の正確さが、そう感じさせるのである。
「内容」ではなく「文体」を信頼してしまう。
これは危険なことかもしれない。しかし一方で、「内容」を信頼し、鵜呑みにするよりもいいかなあ、とも思う。「内容」はうさんくさいが、ことばを動かすリズム(文体)は借りることができないものである。そこには「肉体」がある。だから、信じていいと、私は思っている。
そして、何の根拠もなく言うのだが、この尾久の「文体」は日本語だけを読んできたひとのものではないと思う。日本では、私たちは一般に「第一外国語」として英語に触れるが、英語を読んできた人のリズム、日本語のニュアンスを一度洗い流している感じがする。「明晰さ」への意思のようなものを感じる。「こう書けば通じるだろう」という漠然とした意識ではなく、この部分はこう書かなければ明晰にならないという意識、他者には伝わらないという意識を感じる。
詩集の帯に、建畠晢が「この詩人の感覚のレンズは不可思議な屈折率をもつ。そこを通過する言葉の光線は蠱惑的な分岐を余儀なくされるのだ。」と書いている。具体的にどの作品のどの部分に建畠が「蠱惑的な分岐」を感じたのかわからないが、私はそういうものを感じない。どこまでも「明哲」と感じる。「明哲」に徹することが、他者と言葉を共有する方法である、と尾久は感じているのではないか。
あ、これでは、どこまで書いても詩集の感想にはならないかもしれない。
私は、尾久の文体が好きである。とても読みやすい、と書くだけでおしまいにすればよかったのかもしれない。
でも、何か書きたい。
「アド・バルーン」を読む。
夏目坂を半分も下ると空は茜色に染まって、わっとはしゃぎながら記憶が駆けて
いった。笑いながら母親たちが後から坂を降りてゆくのはありふれているが、大
概はそこで意味を見失ってしまう。
書き出しの文章は、新感覚派(川端康成とか横光利一とか)の文章を思い起こさせる。坂を下ると空が茜色に染まるわけではなく、たまたま夕暮れの時間に坂を下っているということなのだが、それを関係があるかのように「翻訳調」の文体に仕立て上げる。「記憶」とは「遠い記憶=こども時代のこと」である。こどもが駆け下りていくのを見ながら、昔はこんなふうに私も駆け下りていった、と母親たちが思い出し、語りながら坂を下りている。それだけのことである。そこに「意味」などない。「意味を見失ってしまう」というのは、ただそれだけのことである。
それだけのことであるけれど。
「意味を失ってしまう」ではなく「意味を見失ってしまう」と尾久は書いている。なぜ「見失ってしまう」ということばを選んでいるか。それは、母親たちが「記憶(こども)が駆け下りていく(自分たちを追い抜いて行ってしまう)」のを見ているからである。
「見失ってしまう」の「見」には「肉体」が刻印されている。意識が「肉体」の確かさで存在している。この「肉体」のあらわしかたが、非常に効果的なのだ。「文体」のなかへ読者(私のことだが)の「肉体」を誘い込み、「肉体」を事件のなかへ参加させる。
私はカミュの多くを知らないし、魯迅も多くを知っているわけではないが、そして具体的にどの文章といま言えるわけではないが、魯迅の文章を読んでいて感じるのも同じものである。魯迅がそこにいる。その「現場」に私の「肉体」が誘い出されていく。「肉体」として、ことばを体験する。魯迅のことばによって、私の「肉体」のあり方が鍛えなおされる感じ。
「反故」にもどって言えば、
寝過ごすことは滅多にないので、無闇に立ったり座ったりして落ち着かない。
この「無闇に立ったり座ったりして」を、私は自分の「肉体の記憶」で体験する。私の「肉体」はそういうことをしたことがある、と覚えている。
こういう感覚を呼び覚ます、こういう感覚の「現場」へ私を誘い込み、もう一度体験させる。そういうことができる文体を尾久はもっている。
再び「アド・バルーン」。こんな行もある。
わあわあと騒いでいる記憶らは、一瞬の隙に茜空から降りてきた怪人に連れ去ら
れてしまう。いまどき珍しいアドバルーンだなあと、懐古趣味の大人を油断させ
て、その実はなにも宣伝などしていないのだ。
こどもたちは、記憶のこどもたちそのもののように、ふと見つけたアドバルーンに夢中になって騒いでいる。そういうことを「怪人に連れ去られる」と比喩にしている。ここには、ほら、こどものころの「肉体」、「怪人に連れ去られてみたい」という欲望のようなものがそのまま表現されているでしょ? それは「夢」なのだけれど、夢というには生々しすぎる「肉体感覚」。
こういうものを、正確に表現できる「文体」が、私は好きだ。
「片足」の書き出し。
季節、いつだっけ。ふとわからなくなる。誰かが一人だけいなくなってしまう
ことについてかんがえていて、僕らは生協で買ったパンをかじりながら図書館の
まえのオブジェに腰掛けている。たすけること、たすけられなかったこと。
「たすけること、たすけられなかったこと。」は医者の仕事を指して言っているようだが、医者ではなくても、「たすけること、たすけられなかったこと」を「比喩」として体験したことは、多くのひとにあると思う。「誰かが一人だけいなくなってしまう」。それは「わけがわからない」。「いつ」だったか、「季節」さえはっきりしない。ただ「いなくなった」ということだけを思い出している。「いなくなった」とわかったときの、不思議な感じ。そのとき、「肉体」は非情にも「パンをかじ」ったりしているのだ。情を裏切り、存在してしまう「自然」としての「肉体」というものがある。それは情を裏切り、存在をやめてしまう「肉体」もまた「自然」であることを教えてくれる。
尾久の「文体」の厳しさと明晰さは、こういうところからも来ているのかもしれない。
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