書いても書いても、まだ書きたいことがある。書き残したことがある。
この映画の魅力のひとつに繰り返しがある。
たとえば樹木希林が長男の墓に水をかける。「暑かったろうね、暑いだろうね」。そのことばを阿部寛が何年か後に繰り返す。そのとき、墓のなかには母(樹木希林)も父もはいっている。妻と家族を連れてやってきた阿部寛が「暑いだろうね、暑かっただろうね」と墓石に水をかける。
最初のシーンでは、墓石に水をかける樹木希林を阿部寛は、ちょっとばかにしながら見ている。死んでしまった人間に対して「暑いだろうね」というようなことばをかけても無意味である。理不尽である。そんな思いで、母の姿を見ている。母の思いにまで、阿部寛のこころは届いていないのである。理不尽、非理性的であることをしないではいられない思い--そういうものに、阿部寛のこころは届いていない。
この映画は、そういう親の思いにまでこころがとどかない息子と、それに向き合い衝突してしまう老いた父・母の物語、そういう家族の物語だとも言える。
思い通りにならないこと、理不尽なこと、不合理なことは、現実には様々に起きる。それをいくつもいくつも乗り越えて、ある日、ふっと、その乗り越えた瞬間に、自分の乗り越えたものが父や母の乗り越えたものと同じだと気がつく。そして、同じことをする。墓石に水をかけて「暑かったろうね」とことばをかけたところで、実際には、死んでしまった人間にはとどかないかもしれない。しかし、そうしないではいられない。理不尽なことをして、人間は、自分の行為を納得するのである。自分自身を納得するのである。
ひとはみんな他人をではなく、自分を納得するために生きている。自分が納得できないから衝突する。
墓参りのあと、阿部寛の家族は山道をおりる。すると黄色い蝶々が飛んでいる。「黄色いモンシロチョウは、冬を生き延びた白い蝶々が黄色になったものだ」と阿部寛が娘に語る。それは、冒頭の墓参りで樹木希林が阿部寛らに語ったことばそのままである。阿部寛には、そんなことは嘘だとわかっている。嘘だとわかっているけれど、そのことばを語りたい。母が語っていたという思い出を繰り返したいのである。
繰り返すというのは「思い出」を繰り返すことであり、「思い出」を繰り返すということは「思い」を繰り返すことである。「思い出」というのは、ふっとこころの奥からわいてくるものであると同時に、こころの奥から意識的に「出す」ものでもある。「思い」を「形にする」ということでもある。
ひとは「思い」を「形にする」ということで生きている。
墓石に水をかける。そして「暑かったろうね」と語る。それは、「思い」を「形にする」ひとつの典型である。なぜ、そんなことをするかと言えば、そうすることで、こういう「思い」があることを知ってもらいたい、覚えておいてほしいと願うからである。
墓石に水をかけ、ことばをかける阿部寛の様子に、ふたりのこどもたちは無頓着である。だが、いま、無頓着だからといって、それが記憶に残らないわけではない。記憶のどこかに残って、それがある日、「思い」そのものを生み出し、「形」にまで高めていく。そういうことが起きる。
この映画のなかに出てくるせりふ--そのひとつひとつは、どれもどこかで聞いたことがあるようことばである。暮らしのなかで繰り返される「ぐち」のようなものである。激しく相手を叩きのめす討論のことば、決着をつけることばではなく、ずるずると結論を先のばしにすることばである。ようするに、ことあるごとに思い出し、口にしつづけることばである。
墓石に水をかけるシーン、黄色い蝶々をみて語ることば--それはたまたま、この映画のなかで明確に繰り返されているが、その繰り返しが挟み込んでいるこの映画のなかの「ストーリー」のことばも、同じように繰り返しなのである。
何度か「また、その話」というやりとりが、実際、映画のなかに出てくるが、人間はひたすら繰り返す。繰り返すことで、あいまいな気持ちを納得する。繰り返しが、「思い」をはっきりした形にする。その形を繰り返しなぞってみたとき、その形によりそうように、たとえば母の、父の思いが近づいてくる。その瞬間の、不思議な和解。
声高にはならず、ただひっそりと語ってくる。
私は何度も何度も、死んでしまった父や母を思い出した。父や母の肉体のなかで繰り返された時間というものを思った。--そういうものは、この映画のなかのせりふではないが、いつでも遅れてやってくる。間に合わない。そして、間に合わなかったからこそ、ひとは、それを繰り返してみる。繰り返すことで、少しでも取り戻そうとする。
それは悲しみである。愛しみである。
この映画の魅力のひとつに繰り返しがある。
たとえば樹木希林が長男の墓に水をかける。「暑かったろうね、暑いだろうね」。そのことばを阿部寛が何年か後に繰り返す。そのとき、墓のなかには母(樹木希林)も父もはいっている。妻と家族を連れてやってきた阿部寛が「暑いだろうね、暑かっただろうね」と墓石に水をかける。
最初のシーンでは、墓石に水をかける樹木希林を阿部寛は、ちょっとばかにしながら見ている。死んでしまった人間に対して「暑いだろうね」というようなことばをかけても無意味である。理不尽である。そんな思いで、母の姿を見ている。母の思いにまで、阿部寛のこころは届いていないのである。理不尽、非理性的であることをしないではいられない思い--そういうものに、阿部寛のこころは届いていない。
この映画は、そういう親の思いにまでこころがとどかない息子と、それに向き合い衝突してしまう老いた父・母の物語、そういう家族の物語だとも言える。
思い通りにならないこと、理不尽なこと、不合理なことは、現実には様々に起きる。それをいくつもいくつも乗り越えて、ある日、ふっと、その乗り越えた瞬間に、自分の乗り越えたものが父や母の乗り越えたものと同じだと気がつく。そして、同じことをする。墓石に水をかけて「暑かったろうね」とことばをかけたところで、実際には、死んでしまった人間にはとどかないかもしれない。しかし、そうしないではいられない。理不尽なことをして、人間は、自分の行為を納得するのである。自分自身を納得するのである。
ひとはみんな他人をではなく、自分を納得するために生きている。自分が納得できないから衝突する。
墓参りのあと、阿部寛の家族は山道をおりる。すると黄色い蝶々が飛んでいる。「黄色いモンシロチョウは、冬を生き延びた白い蝶々が黄色になったものだ」と阿部寛が娘に語る。それは、冒頭の墓参りで樹木希林が阿部寛らに語ったことばそのままである。阿部寛には、そんなことは嘘だとわかっている。嘘だとわかっているけれど、そのことばを語りたい。母が語っていたという思い出を繰り返したいのである。
繰り返すというのは「思い出」を繰り返すことであり、「思い出」を繰り返すということは「思い」を繰り返すことである。「思い出」というのは、ふっとこころの奥からわいてくるものであると同時に、こころの奥から意識的に「出す」ものでもある。「思い」を「形にする」ということでもある。
ひとは「思い」を「形にする」ということで生きている。
墓石に水をかける。そして「暑かったろうね」と語る。それは、「思い」を「形にする」ひとつの典型である。なぜ、そんなことをするかと言えば、そうすることで、こういう「思い」があることを知ってもらいたい、覚えておいてほしいと願うからである。
墓石に水をかけ、ことばをかける阿部寛の様子に、ふたりのこどもたちは無頓着である。だが、いま、無頓着だからといって、それが記憶に残らないわけではない。記憶のどこかに残って、それがある日、「思い」そのものを生み出し、「形」にまで高めていく。そういうことが起きる。
この映画のなかに出てくるせりふ--そのひとつひとつは、どれもどこかで聞いたことがあるようことばである。暮らしのなかで繰り返される「ぐち」のようなものである。激しく相手を叩きのめす討論のことば、決着をつけることばではなく、ずるずると結論を先のばしにすることばである。ようするに、ことあるごとに思い出し、口にしつづけることばである。
墓石に水をかけるシーン、黄色い蝶々をみて語ることば--それはたまたま、この映画のなかで明確に繰り返されているが、その繰り返しが挟み込んでいるこの映画のなかの「ストーリー」のことばも、同じように繰り返しなのである。
何度か「また、その話」というやりとりが、実際、映画のなかに出てくるが、人間はひたすら繰り返す。繰り返すことで、あいまいな気持ちを納得する。繰り返しが、「思い」をはっきりした形にする。その形を繰り返しなぞってみたとき、その形によりそうように、たとえば母の、父の思いが近づいてくる。その瞬間の、不思議な和解。
声高にはならず、ただひっそりと語ってくる。
私は何度も何度も、死んでしまった父や母を思い出した。父や母の肉体のなかで繰り返された時間というものを思った。--そういうものは、この映画のなかのせりふではないが、いつでも遅れてやってくる。間に合わない。そして、間に合わなかったからこそ、ひとは、それを繰り返してみる。繰り返すことで、少しでも取り戻そうとする。
それは悲しみである。愛しみである。
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