詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎「雪しく封印」

2017-04-23 10:06:07 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋睦郎「雪しく封印」(「現代詩手帖」2017年04月号)

 先日高橋睦郎の朗読について書いた。聞いたときの衝撃が強すぎて(想像と違いすぎていて)、ほんとうに書きたいこととは違ったことを書いたかもしれない。書こうとしていたこととは関係のないことを書いたかもしれない。しかし、それはそれで、何らかの、私には理解できない「理由」というものがあるのかもしれない。

 私はそれまで高橋の朗読を聞いたことはない。自分で高橋の詩を声に出して読んだこともないのだが、音についてはいろいろ思うことがある。そのことを書く。
 「雪しく封印」は大伴家持のことを書いている。「ohtomo no yakamochi 」と別のタイトルがつけられている。その書き出し。

言ふなかれ わたくしが二度死なしめられた とは
一度目は享年六十八を一期に延暦四年八月 奥州多賀城にて
中納言従三位春宮大夫兼陸奥按察使持節征東将軍として

 本文にはルビがある。漢字は「正字」をつかっている。私のワープロでは再現できないので省略した。
 このことばを読むとき、私には、ことばはどんなふうに感じられるか。
 ことばが紙面から私に向かってやってくる、という感じではない。読んでも読んでも、ことばはやってこない。ことばは、「いま/ここ」から「いま/ここではないところ」へ帰っていってしまう。「音」にたとえると、音が聞こえてくるのではない。音が消えていく。聞こえなくなって行く。
 私が高橋の詩に感じるのは、いつもそういうことだ。
 ことばは遠くへ、そのことばが本来あるべきところへ帰っていく。それでは何が伝わってくるのか、何が残っているのかというと、紙の上に「ことばの構造」が残っている。消せない感じで、刻み込まれている。「ことば(意味)」としては何ももわからないのだけれど、ことに「ことば」があった、ということが非常に強く伝わってくる。
 たとえて言えば、「木簡」の「漢字」を読んでいるようなものだ。なんとなく「漢字」とわかる。「知っている」文字があるから、これは「漢字」だな、と思う。ここには何かが書かれていたんだなと思う。でも、それが何を書いてあるかわからない。読むことができない。
 あるいは「外国語」の本を開いた感じ。たしかにそこに「ことば」は書かれている。けれど、その「ことば」は「意味」となって、私には向かってこない。「ことば」は、その「ことば」が属していたところへ帰っていくという感じ。
 「万葉時代の漢字」でも「外国語」でもないので、高橋の詩を読んで、何一つわからないということはない。けれど「意味」が正確にわかるかと言えばわからない。ただ、そこに書かれている「ことば」は、私に向かってくるよりも、その「ことば」が属していた世界へ帰る方が「正しい」動き方をすると感じる。「いま/ここ」で動くよりも、その「ことば」が生まれた世界へ向かうときの方が、強く、正しいという印象がある。
 「いま/ここ」に詩として書かれ、実際に「ことば」があるのに、その「ことば」ではなく、「ことば」が本来の場所へ帰って行ったという「痕」が残っている。
 これを、私は「死の印象」のように感じる。
 死体を見る。たとえば、父や、母の、あるいは兄弟の死体を見る。「肉体」は、そこにある。けれど、それは動かない。動きは、すべて「いま/ここ」ではなく、「いま/ここ」をつくった「過去」へ帰っていってしまい、これから先は動くことができなくなったものだけが残っている。それを見る感じに非常によく似ている。
 この肉体(死体)は、私にはもう働きかけてくることはないのだ。この肉体(死体)と一緒に何かをするということは、もう、けっして起こらないのだ。
 この印象を高橋のことばに重ねて言うと、高橋がここで書いている「ことば」と私がいっしょに何かを考えるということはない。高橋がここに書いている「ことば」をつかって、私が「いま/ここ」を切り開き、未来をつくりはじめるという感じはない。ここに書かれている「ことば」は私から遠くなる。絶対、手の届かない「過去」へ帰っていく。私は、いわば、そういう「ことば」があったということを「死体」を見るように見るのである。読むのである。
 見えるのは「死」、聞こえるのは「死」。

 ここから、一気に、「論理」は飛躍してしまうのだが。

 私が高橋のことばから感じるのは「死の音楽」である。「絶対的な無の音楽」である。それは、聞こえない。聞こえないことによって存在する「音楽」。
 そういうものが、ありうるのかどうかわからないが、ことばではともかく、そういうふうに語ることができる矛盾した何か。
 この「絶対的矛盾」のようなものは、私は、「国語」を超えると思っている。
 高橋の詩を、高橋が外国で読むとき、聴衆に伝わるのは、その「死の音楽」だと私は勝手に想像していた。
 「ことば」がある。「ことば」が「声」として発せられる。それは現象的には聴衆に向かって発せられるのだが、「ことば(音)」は聴衆のことなど気にしていない。「ことば」は「ことば」が本来属している世界へ真っ直ぐに帰っていく。そのまっすぐに帰っていくときの「まっすぐさ」が「いま/ここ」に残される。
 そして、その「まっすぐさ」が、何か非常に刺戟的なのだ。
 「いま/ここ」で何か言おうとすると、「おまえのことばは、それでいいのか」と問いかけてくるとでもいえばいいのだろうか。「おまえのことばは、帰り道をもっているか」「おまえのことばは、きちんと道を歩いてきたか」と問いかけられているといえばいいのかもしれない。
 「いま/ここ」で語られた「意味(内容)」ではなく、「ことばのあり方」そのものを糾弾してくるとでも言いなおせばいいのだろうか。
 「おまえのことばは、構造(文法/道)を持っているのか」と問われていると言えばいいのだろうか。

 私はいいかげんな人間だから、こういう「ことば」の前ではとまどってしまうしかない。父の死体、母の死体、兄の死体。何度か、見たことがある。しかし、それをどう取り扱っていいのか、私は知らない。わからない。わからないから、専門家にまかせてしまう。葬儀屋とか、医師とか。他人の指示にしたがって、まあ、いわれるままに動いているのが私なのだというしかない。父の死体や母の死体と、これから一緒に生きていくわけではないのだから、そんなことを問いかけられても困るのだ。「死の処理」のことなど、考えられない。いま、どうやって生きるかということもわからないのだから。--まあ、そうだからこそ、そういう「問いかけ」が厳しく聞こえるのだろうけれど。
 父や母が死んで、どこかへ行ってしまった、と私には感じられない。生まれたところ、生きてきた道を引き返して行った、という感じ。私は、では、ちゃんと生きてきた道を引き返せるのかと問われても、やっぱりわからない。困ってしまう。

 私の書いていることは、抽象的だろうか。あるいは、具体的だろうか。自分でもよくわからない。
 でも、なんとなく、高橋の書いていることばの「強烈な死の匂い(死の音楽)」は、「神」と向き合うことの多いヨーロッパの人には強く響くだろうなあ、とは思う。(ヨーロッパの宗教を知っているわけではないが。)
 高橋の詩の朗読がヨーロッパでは好評だろうなあ、と想像したとき、私はなんとなく、いま書いたようなことを考えていたのだった。

 あ、詩の感想から離れてしまったか。
 詩を読みながら、高橋の「ことば」は「古典」へ帰っていくと感じる。「旧かな遣い」が端的に高橋の「ことばの肉体」を特徴づけている。「ことば」がどんなふうに動いてきて、「いま/ここ」にあるのか。それを「ことばの肉体の動き」のなかでととのえなおしている。「ことばの肉体」の本来の動きを引き継いでいる。
 「意味(内容)」ではなく、そこに書かれているのは、そういう「動かし方」なのである。「意識」ではなく「無意識」になってしまった「肉体」である。
詩人が読む古典ギリシア――和訓欧心
クリエーター情報なし
みすず書房

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