田中清光『太平洋--未来へ』(2)(思潮社、2017年10月01日発行)
田中清光『太平洋--未来へ』は、「太平洋」で始まり「未来へ」で終わる。「未来へ」というのは「副題」ではなかったのだと、終わりのページまで読んできてわかる。
私は「考える」という動詞まで読み進んで、ふと、立ち止まった。
これは詩なのかなあ、知識や思想書いたエッセイを行かえによって詩にみせているのかなあ、と感じながら読んでいて、「考える」で立ち止まったのだ。
この詩は「考えたこと」を書いている。「感じたこと」(感情)ではなく、「思考」を書いている。しかも「どう考えるか」ということ、つまり「わからない」ことを考えているということに、「考える」ということばで気づいた。
もしかしたら、「哲学」というものを書いている?
そして読み返すと「よぶ」という動詞が気になった。
「バクテリアを 細菌、分裂菌とよび」は、あるものに「名前」をつけること。「名前」をつけることで、自分との「関係」を明確にするんだろうなあ。だからこそ、「最下等とまでよびもする」ということが起きる。人類は「最上等」、バクテリアは「最下等」という「位置関係」。このとき「よぶ」とは「考える」と同じこと。
バクテリアを「細菌」と呼ぶのは「おおきい菌」ではなく「こまかい菌」と考える。「分裂菌」と呼ぶのは、それが「分裂する菌」と考えるからだろう。
ここから「それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう考えるか」という一行の「考える」を「よぶ」と書き直してみると、どうなるか。
うーん、
何だか「考える」よりも「強い」感じがする。「考える」は「頭」で処理しているが「よぶ」となると「声に出す」感じがする。「肉体」をとおして「事実」をもういちどつか見直す感じがする。
これは、私だけの感じ、つまり「誤読」かもしれないが。
この「よぶ」はまた「名づける」でもある。
「バクテリア」を「細菌」と名づけ、「分裂菌」と名づけ、「最下等」と名づける。それにあわせて「事実」をどう「名づける」か。
「名づける」と言いなおすと、自分との「関係」が、また少し変わってくる。
「名づける」とは対象(名づけられたもの)と自分との「関係」を、自分以外の人間に知らせることでもある。自分にとって「特別」な存在であるとき、それに「名前」をつける。「名づける」。
「事実」にどんな「名前」をつけ、それ「よぶ」ことで、「事実/対象」と自分の関係を他人に知らせる。「考え」は、たぶん、その「名前」を通って他人につたわっていくんだろうなあ。「考え」は「あいまい」で「願い」のようなものかもしれない。
こどもに名前をつけるとき、親は「願い」をこめる、というのに似ているかなあ。
さらに詩を読み直すと。
一連目に「いう」という動詞が出てくる。「よぶ」と「いう」はどう違うのか。
こどもの名前を例に引いたので、そのつづきで考える。
「きみの名前はなんというの?」
「太郎だよ」
日本語の「文脈」では「いう」と「よぶ」は、ちょっと違った感じがある。
「きみのことを、お父さんはなんとよぶの?」
「たー坊だよ/たーちゃんだよ/おい、坊主ってよぶんだ、いやになっちゃうよ」
「いう」よりも「よぶ」の方が「主観」が強い。愛着、感情がからみついている。「客観的」ではない。
地球上で生物の絶滅が六回繰り返されたのは「客観的事実」、バクテリアを細菌とよぶのは、そこに何かしらの「主観」のようなものが入っている。「定義づけ」がふくまれるということか。
この「考える」は「よぶ」ととらえなおすとき、そこに「主観的」な「定義」がふくまれそうだ。「いう」ととらえなおすときには「主観」は排除され、「客観的」なものになるのかもしれない。
田中は、どっちを選ぶのだろう。
三連目を読む。
「考える」が「思う」という動詞で言いなおされている。
私だけのとらえ方かもしれないが、「考える」は「頭で考える」。「思う」は「こころで思う」(思う、という漢字のなかに「心」がある。)
だから、田中が「考える」を「思う」と言いなおすことで、田中は「客観」ではなく「主観」の方へ詩を動かしている。「客観」というよりも「主観」でことばを動かしている。
このことから、田中が書いているのは、知識や思考をことばにしたエッセイではなく「詩である」と定義できる。
でも、詩ではなく、「哲学」だとしたら?
ここから、脱線する。
田中は「こころ」でことばを動かしている。だから、これは詩である。そう定義するとき、私の「肉体」のなかにもやもやしたものが残る。
実は、私は「こころ」というものが「ある」とは考えていない。「こころ」ということばをつかってことばを動かすと、一見、論理的に「結論」を出すことができるが、どうもそれは「うそ」になる。私は「既成のことば」を「既成の論理」で動かしただけではないかという疑問が、私の「肉体」のなかに残ってしまう。
「考える」(頭)、「思う」(こころ)。そのときの「動詞」と「主語」をべつのことばで言いなおせないか、もっと私の「肉体」に関係づけることはできないだろうか。ほかの「主語」、ほかの「動詞」でとらえなおすことができない。
そういう「もやもや」の声に耳をすますと、最初に読んだ「いう」「よぶ」という動詞が気になり始める。私は「考える」「思う」ということばを頼りに「結論(?)」をつかみとるよりも、「いう」「よぶ」へと引き返したい欲望にとらわれる。
「いう」「よぶ」へ引き返した方が、田中の「肉体」に触れることができるではないか、と直感する。田中の「肉体のことば」「ことばの肉体」は、「いう」「よぶ」ということばと一緒にあるのではないか。
端折って言うと。
私がしたいのは、「いいなおし」、「よびなおし」である。「いいなおす」とき、「よびなおす」とき、私は「頭」でも「こころ」でもなく、「声」(肉体そのもの)をつかっている。田中も、もしかするとそうかもしれない。そういう部分から、田中をつかみなおしたい。(「こころ」が「ある」というけれど、私はそれがどこにあるか、「肉体」で確かめたことがないので、「こころ」をつかったままの「結論」では落ち着かないのだ。)
田中は「思いめぐらす」という動詞をつかっているが、私は「肉体」のなかに「ことば」をめぐらす。のどをつかう。舌をつかう。文字を書きながらなので手もつかう。目もつかう。「肉体」を総動員している。「どこ」をつかっていると、特定できない。あるいは特定しない。相対化もしない。
この「肉体の総動員」こそが「考える」「思う」であり、それは「頭」や「こころ」の仕事ではない。実際に「ことば」を「声」にする。「音」として聴こえるものにし、声を出しながら声を聞き、文字を書きながら文字を読む。私は、そうとらえている。
そんな感じでことばに向き合うから、よけいに「いう」とか「よぶ」とか、「肉体」で「再現」(追体験)することができることばにひかれるのかもしれない。このことばにこそ田中のすべてがある、と「共感」する。
詩にもどれるがどうかわからないが、もどってみる。
途中を省略して、最終連。
「微小ないのち」はバクテリアの「よびなおし」である。田中が積極的に「定義づけ」をしている。「細菌」とか「分裂菌」と違って、バクテリアを「微小ないのち」ことは「定着」していない。いわば、これは田中語である。だからこそ、そこに「主観」が積極的に付け加えられていることになる。
このことばのなかに、田中は、田中の「姿をあらわして」いる。
このとき、それまで「見えなかった」田中が見えている。
最終連のなかにあることばを借りて言えば、その「見えなかった田中」、「微小ないのち」とバクテリアをよびなおすことであらわれて田中の姿は「本然」というものなのかもしれない。
「本然」ということばを私はつかわないので(つかったことがないので)、うまくつかみとれているかどうかわからないが、「生き永らえてきた微小ないのち」をいいなおしたもの、よびなおしたものが「本然」だろう。それは「出発点」であり「到達点」である。いわば田中を貫き、ひとつにする「本質/永遠」を指し示している。
さらに「出発点」「到達点」を結ぶということから、こういうことを「道をつくる」といいなおすこともできる。「道をつくる」の方がもっと「肉体の労働」という感じが強くなり、適切かもしれない。
で、これを先の一行にあてはめると、
という具合になる。
そういえば、昔「道」という感じに「いう」という「ルビ」が振ってあるのを読んだことがあるなあ。「道をつくる」と「いう」は同じことなのだ。それは、言った「道をあるく」ということでもある。歩いた後に道ができるというと高村光太郎になってしまうが、「いう」は「歩く」と同じように「道をつくる」のだろう。
何かをいいなおす、よびなおすことで、既成のことばではつかみとれない「事実」をあきらかにすること。それが「詩の運動」なのだろう。田中にとっての詩なのだろう。いままで語られていない「事実」をあきらかにするものなので「哲学」と呼ぶこともできる。そういう「運動」を「未来へ」向けて動かしたい。
そういう「いのり」を感じた。
「いう/よぶ」という、「肉体」になじんだ動詞から出発し、「いう/よぶ」へ帰っていく運動をたどりなおすとき、私の「肉体」は田中の「ことばの肉体/肉体のことば」と触れる。
*

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田中清光『太平洋--未来へ』は、「太平洋」で始まり「未来へ」で終わる。「未来へ」というのは「副題」ではなかったのだと、終わりのページまで読んできてわかる。
地球上ではこれまでに生物の絶滅が
六回も繰り返されたという--
そのなかを バクテリアだけが
最長の生命原理を生きつづけている というが
バクテリアを 細菌、分裂菌とよび
最も原始的な単純細胞生物
最下等とまでよびもする人類だが
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう考えるか
私は「考える」という動詞まで読み進んで、ふと、立ち止まった。
これは詩なのかなあ、知識や思想書いたエッセイを行かえによって詩にみせているのかなあ、と感じながら読んでいて、「考える」で立ち止まったのだ。
この詩は「考えたこと」を書いている。「感じたこと」(感情)ではなく、「思考」を書いている。しかも「どう考えるか」ということ、つまり「わからない」ことを考えているということに、「考える」ということばで気づいた。
もしかしたら、「哲学」というものを書いている?
そして読み返すと「よぶ」という動詞が気になった。
「バクテリアを 細菌、分裂菌とよび」は、あるものに「名前」をつけること。「名前」をつけることで、自分との「関係」を明確にするんだろうなあ。だからこそ、「最下等とまでよびもする」ということが起きる。人類は「最上等」、バクテリアは「最下等」という「位置関係」。このとき「よぶ」とは「考える」と同じこと。
バクテリアを「細菌」と呼ぶのは「おおきい菌」ではなく「こまかい菌」と考える。「分裂菌」と呼ぶのは、それが「分裂する菌」と考えるからだろう。
ここから「それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう考えるか」という一行の「考える」を「よぶ」と書き直してみると、どうなるか。
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどうよぶか
うーん、
何だか「考える」よりも「強い」感じがする。「考える」は「頭」で処理しているが「よぶ」となると「声に出す」感じがする。「肉体」をとおして「事実」をもういちどつか見直す感じがする。
これは、私だけの感じ、つまり「誤読」かもしれないが。
この「よぶ」はまた「名づける」でもある。
「バクテリア」を「細菌」と名づけ、「分裂菌」と名づけ、「最下等」と名づける。それにあわせて「事実」をどう「名づける」か。
「名づける」と言いなおすと、自分との「関係」が、また少し変わってくる。
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう名づけるか
「名づける」とは対象(名づけられたもの)と自分との「関係」を、自分以外の人間に知らせることでもある。自分にとって「特別」な存在であるとき、それに「名前」をつける。「名づける」。
「事実」にどんな「名前」をつけ、それ「よぶ」ことで、「事実/対象」と自分の関係を他人に知らせる。「考え」は、たぶん、その「名前」を通って他人につたわっていくんだろうなあ。「考え」は「あいまい」で「願い」のようなものかもしれない。
こどもに名前をつけるとき、親は「願い」をこめる、というのに似ているかなあ。
さらに詩を読み直すと。
一連目に「いう」という動詞が出てくる。「よぶ」と「いう」はどう違うのか。
こどもの名前を例に引いたので、そのつづきで考える。
「きみの名前はなんというの?」
「太郎だよ」
日本語の「文脈」では「いう」と「よぶ」は、ちょっと違った感じがある。
「きみのことを、お父さんはなんとよぶの?」
「たー坊だよ/たーちゃんだよ/おい、坊主ってよぶんだ、いやになっちゃうよ」
「いう」よりも「よぶ」の方が「主観」が強い。愛着、感情がからみついている。「客観的」ではない。
地球上で生物の絶滅が六回繰り返されたのは「客観的事実」、バクテリアを細菌とよぶのは、そこに何かしらの「主観」のようなものが入っている。「定義づけ」がふくまれるということか。
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう考えるか
この「考える」は「よぶ」ととらえなおすとき、そこに「主観的」な「定義」がふくまれそうだ。「いう」ととらえなおすときには「主観」は排除され、「客観的」なものになるのかもしれない。
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどうよぶか
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう名づけるか
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどういうか
田中は、どっちを選ぶのだろう。
三連目を読む。
未来に向かおうとするわれらが
この宇宙原理とともに永く
生きつづけている存在があることについて
思いめぐらしてみるとき
「考える」が「思う」という動詞で言いなおされている。
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実をどう思うか
私だけのとらえ方かもしれないが、「考える」は「頭で考える」。「思う」は「こころで思う」(思う、という漢字のなかに「心」がある。)
だから、田中が「考える」を「思う」と言いなおすことで、田中は「客観」ではなく「主観」の方へ詩を動かしている。「客観」というよりも「主観」でことばを動かしている。
このことから、田中が書いているのは、知識や思考をことばにしたエッセイではなく「詩である」と定義できる。
でも、詩ではなく、「哲学」だとしたら?
ここから、脱線する。
田中は「こころ」でことばを動かしている。だから、これは詩である。そう定義するとき、私の「肉体」のなかにもやもやしたものが残る。
実は、私は「こころ」というものが「ある」とは考えていない。「こころ」ということばをつかってことばを動かすと、一見、論理的に「結論」を出すことができるが、どうもそれは「うそ」になる。私は「既成のことば」を「既成の論理」で動かしただけではないかという疑問が、私の「肉体」のなかに残ってしまう。
「考える」(頭)、「思う」(こころ)。そのときの「動詞」と「主語」をべつのことばで言いなおせないか、もっと私の「肉体」に関係づけることはできないだろうか。ほかの「主語」、ほかの「動詞」でとらえなおすことができない。
そういう「もやもや」の声に耳をすますと、最初に読んだ「いう」「よぶ」という動詞が気になり始める。私は「考える」「思う」ということばを頼りに「結論(?)」をつかみとるよりも、「いう」「よぶ」へと引き返したい欲望にとらわれる。
「いう」「よぶ」へ引き返した方が、田中の「肉体」に触れることができるではないか、と直感する。田中の「肉体のことば」「ことばの肉体」は、「いう」「よぶ」ということばと一緒にあるのではないか。
端折って言うと。
私がしたいのは、「いいなおし」、「よびなおし」である。「いいなおす」とき、「よびなおす」とき、私は「頭」でも「こころ」でもなく、「声」(肉体そのもの)をつかっている。田中も、もしかするとそうかもしれない。そういう部分から、田中をつかみなおしたい。(「こころ」が「ある」というけれど、私はそれがどこにあるか、「肉体」で確かめたことがないので、「こころ」をつかったままの「結論」では落ち着かないのだ。)
田中は「思いめぐらす」という動詞をつかっているが、私は「肉体」のなかに「ことば」をめぐらす。のどをつかう。舌をつかう。文字を書きながらなので手もつかう。目もつかう。「肉体」を総動員している。「どこ」をつかっていると、特定できない。あるいは特定しない。相対化もしない。
この「肉体の総動員」こそが「考える」「思う」であり、それは「頭」や「こころ」の仕事ではない。実際に「ことば」を「声」にする。「音」として聴こえるものにし、声を出しながら声を聞き、文字を書きながら文字を読む。私は、そうとらえている。
そんな感じでことばに向き合うから、よけいに「いう」とか「よぶ」とか、「肉体」で「再現」(追体験)することができることばにひかれるのかもしれない。このことばにこそ田中のすべてがある、と「共感」する。
詩にもどれるがどうかわからないが、もどってみる。
途中を省略して、最終連。
すべての生物のなかで生き永らえてきた微小ないのちに
宇宙原理が姿を表わしていることに
見えない未来の
本然が見えているかもしれない
「微小ないのち」はバクテリアの「よびなおし」である。田中が積極的に「定義づけ」をしている。「細菌」とか「分裂菌」と違って、バクテリアを「微小ないのち」ことは「定着」していない。いわば、これは田中語である。だからこそ、そこに「主観」が積極的に付け加えられていることになる。
このことばのなかに、田中は、田中の「姿をあらわして」いる。
このとき、それまで「見えなかった」田中が見えている。
最終連のなかにあることばを借りて言えば、その「見えなかった田中」、「微小ないのち」とバクテリアをよびなおすことであらわれて田中の姿は「本然」というものなのかもしれない。
「本然」ということばを私はつかわないので(つかったことがないので)、うまくつかみとれているかどうかわからないが、「生き永らえてきた微小ないのち」をいいなおしたもの、よびなおしたものが「本然」だろう。それは「出発点」であり「到達点」である。いわば田中を貫き、ひとつにする「本質/永遠」を指し示している。
さらに「出発点」「到達点」を結ぶということから、こういうことを「道をつくる」といいなおすこともできる。「道をつくる」の方がもっと「肉体の労働」という感じが強くなり、適切かもしれない。
で、これを先の一行にあてはめると、
それが宇宙原理に添って生きつづけてきている事実になるようどう「道をつくる」か
という具合になる。
そういえば、昔「道」という感じに「いう」という「ルビ」が振ってあるのを読んだことがあるなあ。「道をつくる」と「いう」は同じことなのだ。それは、言った「道をあるく」ということでもある。歩いた後に道ができるというと高村光太郎になってしまうが、「いう」は「歩く」と同じように「道をつくる」のだろう。
何かをいいなおす、よびなおすことで、既成のことばではつかみとれない「事実」をあきらかにすること。それが「詩の運動」なのだろう。田中にとっての詩なのだろう。いままで語られていない「事実」をあきらかにするものなので「哲学」と呼ぶこともできる。そういう「運動」を「未来へ」向けて動かしたい。
そういう「いのり」を感じた。
「いう/よぶ」という、「肉体」になじんだ動詞から出発し、「いう/よぶ」へ帰っていく運動をたどりなおすとき、私の「肉体」は田中の「ことばの肉体/肉体のことば」と触れる。
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