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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「棚(1969)」より(5)中井久夫訳

2009-01-09 00:47:44 | リッツォス(中井久夫訳)

訊問室    リッツォス(中井久夫訳)

長い廊下。両側は閉じた扉。
煙突。ストーヴはどこだろう。少し煙が出てる。
廊下のもう一方の端に黒づくめの男が五人。同じ格好の覆面。彼を眺めてる。
彼は扉を叩く。無音。次の扉。第三の扉。最後の扉まで
反応なし。こんどは反対側。叩く。一つづつ。
扉が尽きた。反応なし。覆面男は不動。
はたしてそうか。戸口から出ると戸口はひとりでに閉まった。
暗くなった。外は雨だった。
彼はトタン板を打つ雨を聞く。中庭のタイルにしぶく音も。
思い出した。記憶の中だ。濡れたアスファルトが
ガラス張りの新しい理髪店を映していた。淡青の高い肘掛け椅子を入れた店だった。



 廊下があり、両側に「訊問室」があるのだろうか。よくわからない。だが、とても不気味だ。「訊問室」の扉を叩いて歩く「彼」を「男が五人」眺めている。「訊問室」には誰もいないので、反応がない。「五人」はそれを知っているはずである。知っていて、「彼」にそういう無意味なことをさせているのだろう。無意味なことをさせられる、という不気味さがある。
 この前半と、「はたしてそうか。」以後の後半ががらりと変わる。
 「記憶」というか、精神がふいにいきいきと動きだすのを感じる。前半の不気味さとはまったく違う。
 「濡れたアスファルトが/ガラス張りの新しい理髪店を映していた。」はテオ・アンゲロプロスの映像(映画)を見ているように美しい。「淡青の高い肘掛け椅子」も、濡れたアスファルトの色と響きあって、雨の日の湿った空気が見えるようだ。この鮮やかさは、いったい何なのだろう。

 ふいに、何の理由もなく、私は思うのだ。
 前半は、「彼」の現実ではない。扉を叩いてまわっているのは「彼」ではない。「彼」は「訊問室」にいる。扉は閉じている。そして、その「訊問室」のなかで、扉を叩いている誰かの動きを思い描いている。扉を叩く回数によって、その廊下のまわりに幾つ同じ部屋があるのか想像している。探っている。それは、同じようにして「訊問」されている仲間が何人いるか、想像しているということと同じだろう。扉を叩いている「彼」は「訊問」が順調に進んでいるか、確かめているのかもしれない。
 そして、最後。
 彼の部屋の扉が開く。「訊問官」(?)がやってくる。彼が訊問される番なのだ。そのときが、やってきたのだ。
 そのとき、ふいに思い出すのだ。彼がとらえられた(拘束された)のは雨の日だった。雨の音が聞こえた。最後に彼が見た「訊問室」以外の風景--拘束されている場所以外の風景は、濡れたアスファルトに映った新しい理髪店。そして、その店の美しい椅子。--ああ、それに比べると、この「訊問室」の、この椅子はいったいなんだろう……。

 私が想像するようなことは、ほんとうは書いてはないのかもしれない。しかし、なぜか、そんなシーンが、まるで映画のなかのシーンのように思い浮かぶ。ことばがかってに「物語」をつくっていく。リッツォスのことばにふれると、私のなかで「物語」が動きはじめる。


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