監督 ウェス・アンダーソン 出演 ブルース・ウィリス、エドワード・ノートン、ビル・マーレイ、フランシス・マクドーマンド、ティルダ・スウィントン、ジェイソン・シュワルツマン、ジャレッド・ギルマン、カーラ・ヘイワード
芸達者な役者たちが、実につまらない役(?)を演じている。映画のストーリーも、まあ、くだらない。ローティーン(12歳)の少年と少女が、世間が気に入らないのでふたりで駆け落ちする。それをみんなが探し回る。それだけ。
人生の「深み」が描かれているわけではない。出ている役者たちも、うまいのだか、へたくそなのだか、よくわからない感じ--ぼーっとしている。ぼーっとした、たよりない演技をしている。
でも。
おもしろい。
このおもしろさを、最後の最後で監督が説明している。--まあ、こういう説明はなくてもいいのだけれど、この映画はあった方がいいだろうね。最近は、こういう「映画文法」でつくられる映画がないので、ついつい説明したんだよね。
その説明を私がここで繰り返すと。
「映画」とは映像と音楽でできている。(台詞もあるが、なくても映画は成り立つね。)で、そのとき映像も「音楽」であると、とても楽しい。
音楽というのは、ひとつの「主題」がある。それをさまざまな楽器で演奏する。舞台の上の楽器が全部鳴り響くときもあるけれど、少しずつ合奏されることもある。で、音楽は、単独の楽器でも可能だけれど、いろいろ集まった方が豊かな響きになる。そして、そのときただ楽器が集まればいいというのではない。やはり、その瞬間、その瞬間のタイミングがある。
この「音楽」の特質と、この映画の役者たちの演技が、重なる。
「主演映画」ならそれぞれが「自己主張」するのだけれど、ブルース・ウィリスもエドワード・ノートンもビル・マーレイもフランシス・マクドーマンドもティルダ・スウィントンも、ここでは頼りない大人という「脇役」。存在感が欠けている。ぼーっとしている。そして、その存在感が欠けて、ぼーっとしていて、頼りないということは、つまらないようでいて、いやあ、
それが出会って絡み合うときに、役者の存在感ではなくて、その場の「空気」が不思議と厚みをもってくる。ひとりひとりでは物足りないのに、集まると、そこに一人一人がもっている「音」は単調なのに、違う「音」と出会うことで、そこにひとりではつくりだせなかった「音」(和音)がふいに立ち現れてくる。
とっても、おかしい。
人間はみんな、おろかで、何か欠けている。それは天才である少年と少女も同じ。何でもできるようでもできないことがある。そのできないことを、他人が助ける--というのではないが、いっしょにいると、ひとりではつくりだせない何かがふっと湧いてくる。
これは、魔法だね。
そういう「音楽」がいつもやっている魔法を、映像(映画)でやってみたのが、この作品。つまらないというか、欠けているというか--そういうものがあるからこそ、その欠けているものと他の欠けているものが出会うと、そこに新しい何か、いままで存在しなかったものがあらわれる。
で、こういうとき、リズムがとても大切。
映画が終わった後の「種明かし」ではていねいに、音楽がはじまる前に、まずメトロノームが登場する。同じリズムを守って、いろいろな色の音が積み重なる。そうして、ひとつの「曲」になる。映画はリズムを守るために、達者な役者たちの「過去」を消して(存在感を消して)スクリーンにほうりだす。リズムに乗るために、事故の主題を消し去って軽々と動く、いわば「紙芝居」のような(あるいは学芸会のような)肉体になっている。監督の過激すぎる欲求に、みんなが完璧に答えている。で、それがとても完璧なので、映画はあっというまに終わる。ややこしい「人生哲学」なんかはほうりだして、ただ、終わる。
とってもしゃれている。おしゃれ度 100点の映画です。
(2013年02月11日、天神東宝2)
芸達者な役者たちが、実につまらない役(?)を演じている。映画のストーリーも、まあ、くだらない。ローティーン(12歳)の少年と少女が、世間が気に入らないのでふたりで駆け落ちする。それをみんなが探し回る。それだけ。
人生の「深み」が描かれているわけではない。出ている役者たちも、うまいのだか、へたくそなのだか、よくわからない感じ--ぼーっとしている。ぼーっとした、たよりない演技をしている。
でも。
おもしろい。
このおもしろさを、最後の最後で監督が説明している。--まあ、こういう説明はなくてもいいのだけれど、この映画はあった方がいいだろうね。最近は、こういう「映画文法」でつくられる映画がないので、ついつい説明したんだよね。
その説明を私がここで繰り返すと。
「映画」とは映像と音楽でできている。(台詞もあるが、なくても映画は成り立つね。)で、そのとき映像も「音楽」であると、とても楽しい。
音楽というのは、ひとつの「主題」がある。それをさまざまな楽器で演奏する。舞台の上の楽器が全部鳴り響くときもあるけれど、少しずつ合奏されることもある。で、音楽は、単独の楽器でも可能だけれど、いろいろ集まった方が豊かな響きになる。そして、そのときただ楽器が集まればいいというのではない。やはり、その瞬間、その瞬間のタイミングがある。
この「音楽」の特質と、この映画の役者たちの演技が、重なる。
「主演映画」ならそれぞれが「自己主張」するのだけれど、ブルース・ウィリスもエドワード・ノートンもビル・マーレイもフランシス・マクドーマンドもティルダ・スウィントンも、ここでは頼りない大人という「脇役」。存在感が欠けている。ぼーっとしている。そして、その存在感が欠けて、ぼーっとしていて、頼りないということは、つまらないようでいて、いやあ、
それが出会って絡み合うときに、役者の存在感ではなくて、その場の「空気」が不思議と厚みをもってくる。ひとりひとりでは物足りないのに、集まると、そこに一人一人がもっている「音」は単調なのに、違う「音」と出会うことで、そこにひとりではつくりだせなかった「音」(和音)がふいに立ち現れてくる。
とっても、おかしい。
人間はみんな、おろかで、何か欠けている。それは天才である少年と少女も同じ。何でもできるようでもできないことがある。そのできないことを、他人が助ける--というのではないが、いっしょにいると、ひとりではつくりだせない何かがふっと湧いてくる。
これは、魔法だね。
そういう「音楽」がいつもやっている魔法を、映像(映画)でやってみたのが、この作品。つまらないというか、欠けているというか--そういうものがあるからこそ、その欠けているものと他の欠けているものが出会うと、そこに新しい何か、いままで存在しなかったものがあらわれる。
で、こういうとき、リズムがとても大切。
映画が終わった後の「種明かし」ではていねいに、音楽がはじまる前に、まずメトロノームが登場する。同じリズムを守って、いろいろな色の音が積み重なる。そうして、ひとつの「曲」になる。映画はリズムを守るために、達者な役者たちの「過去」を消して(存在感を消して)スクリーンにほうりだす。リズムに乗るために、事故の主題を消し去って軽々と動く、いわば「紙芝居」のような(あるいは学芸会のような)肉体になっている。監督の過激すぎる欲求に、みんなが完璧に答えている。で、それがとても完璧なので、映画はあっというまに終わる。ややこしい「人生哲学」なんかはほうりだして、ただ、終わる。
とってもしゃれている。おしゃれ度 100点の映画です。
(2013年02月11日、天神東宝2)
![]() | ザ・ロイヤル・テネンバウムズ [DVD] |
クリエーター情報なし | |
ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント |