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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

塚本敏雄『見晴らしのいいところまで』

2013-09-07 08:47:47 | 詩集
塚本敏雄『見晴らしのいいところまで』(書肆山田、2013年07月30日発行)

 塚本敏雄『見晴らしのいいところまで』は私が右ひじを骨折した日が発行日。私は体調が悪いときに読んだ。体が動かないと、ことばもうごかない。塚本のことばは動いているのかもしれないが、私の肉体がその運動を引き留めてしまう。詩集のタイトルが象徴しているように、塚本のことばはどこか「見晴らしのいいところまで」行こうとしているのだが、私は動けない。
 で、

遮断の合図
あるいはそれは
何ものかの通過の
風のそよぎなのだろうか

 というような行にとどまる。
 これは「欠けた月」の2連目。1連目には、どこからともなく踏み切りの音が聴こえて来る。近くには踏み切りはない。かつては私鉄電車が走っていた。--ということが書かれている。つまり2連目は、そういう「記憶」をもとに動いたことばなのだ。
 で、私は次のようなメモを余白に書き込んでいた。自分でも判読できない文字で。

 意味の反転にひそむ抒情。

 そうか、「見晴らしのいいところ」は、もしかすると「未来」が見えるところではなく、「過去」が見えるところなのか。--書き込んだときは、そう思ったのかもしれない。
 意味の反転--矛盾に一瞬立ち止まる。そのとき何かが見える。「立ち止まる」という動詞が肉体のなかに見える。「動詞が見える」というのはおかしな表現だが、その動詞を私の「肉体」が反芻しているのを感じると言いなおせばいいのかもしれない。「黙読」するように、その動詞は「黙動」する。実際に筋肉も骨も動かないが、肉体の「意識」が動く。「意識の肉体」が動く。動くといっても、この場合「立ち止まる」という反・動きなのだけれど。で、「立ち止まる」は「未来」をめざしながらも、一瞬「過去」を振りかえるということでもあって。

私はふと
退職までの年数を
ポケットのなかで指折り数え
こんな日の夜には
何か人知れぬものが
往来をわたっていくものだから
決して外へ出てはいけないと
祖母が震える禁忌を暗い水のように
そっと解き放っていたのを思い出す

 という動きになる。「退職までの年数を」「数える」というのは「未来」までの年数を数えることだから「過去」を振りかえるわけではないのだが、その行為のなかに過去の祖母の行為(言っていたこと)が重なるので、「時系列」が一瞬、乱れる。「時間」が前へ進むのではなく、過去にもどるを含む。矛盾しながら「いま」の時間を複合的にする。
 それは見晴らしがわるいこと? 見晴らしがいいこと?
 これはむずかしくて……。
 たぶん、その「過去」に見た「見晴らしのいい風景」(祖母のことばが指し示す光景)が「いま」は見えない。で、塚本は、過去に見た見晴らしのいい風景を、未来の時間にみたいと思い、歩いているということになる。「いま」を捨て去って、「過去」から「未来」へワープしたい。「いま」を突き破って、過去と未来を直結すれば、きっと「見晴らし」がよくなるのだ。
 これは別のことばで言えば「いま」が「見晴らし」を疎外しているのだ、ということ。
 で、やっぱり、この「いま」に対する「敗北」のようなものが塚本のことばの「抒情」の基本なのかなあ。
 「六月の雨のなかを」にも、「過去-いま-未来」の不透明さが書かれている。

ぼくはどこへ向かっているのだろう
思いは水滴に溶けて混じりあう
ぼくには最初から行く当てなんてなかった
だけどまるで行方があるかのように
思い込んでいただけ
ここが前も後ろもない深い海の底だとしても
何の不思議もない

 「どこか」が「未来」であり、「ここ」が「いま」である。そして塚本は「未来」へ向かいながら「未来」も「向かう」という動詞にも違和感を感じている。「いま」ここにある「水滴」に「思いが混じり」、動けなくなる。その「動けない」を反芻すると、さらに「どこか」が切なく感じられる……。

 うーん、やっぱり「抒情詩」なのか。






見晴らしのいいところまで
塚本 敏雄
書肆山田

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