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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベティナ・オベルリ監督「マルタのやさしい刺繍」(★★★★)

2008-12-12 00:12:06 | 映画
監督 ベティナ・オベルリ 出演 シュテファニー・グラーザー、ハイディ・マリア・グレスナー、アンネマリー・デュリンガー、モニカ・グブザー

 好きなシーンがいくつかあるが、一番好きなのは、シュテファニー・グラーザーが仲間の4人と街へ行くためにバスを待っているシーンだ。バスが近付く。4人は立ち上がる。しかし、バスはバス停に停車せず、通りすぎる。通りすぎてから、ブレーキをかける。4人は、とことこと歩きだす。
 バスの運転手は、まさか老人4人が街へ行くとは想像していない。でも、バックミラーに映った(?)4人を見て、はっと気がつく。あ、4人は街へ行くのだ。そして、とまる。そして4人を乗せて行く。
 これはシュテファニー・グラーザーが1人で街へ行くとき、もう一度繰り返されるシーンだ。
 このシーンが好きなのは、たぶん、このシーンが映画全体を象徴しているからだ。
 誰も老人が何かをしたいと思っている、夢を持っているとは想像していない。街へ行くということさえ、考えてもいない。なぜ、老人4人がわざわざバスに乗って街へ行く必要があるのか、なんて、考えもしない。村にいればいい、家にいればいい。そう考えている。だから、立ち上がっても、すぐにはその存在に気がつかない。--けれども、運転手は気がつく。あ、バスに乗るのだ、と気づいてブレーキをかける。そして、老人を待っている。
 この映画では、こうしたことが形をかえながら繰り返される。
 シュテファニー・グラーザーはレースのついた奇麗なランジェリーをつくりたいという夢を持っていた。それは田舎の村にはふさわしくない夢だった。夫が死んで、なにもすることがなくなって、シュテファニー・グラーザーは、その夢をもう一度追いかける。最初は誰もその夢に気がつかない。気がつかないだけではなく、気がついた人々は、ばかげたことだと否定する。ののしり、拒絶する。特に、シュテファニー・グラーザーに近しい人、たとえば牧師の息子が拒絶する。友人の、息子が否定する。年齢が近い世代が「いやらしい」と爪弾きにする。近付こうとしない。
 最初に、シュテファニー・グラーザーの才能に気づくのは、インターネットの向うにいる顔も知らなければ名前も知らない人である。それは、ある意味ではバスの運転手に似ている。土地のつながりにしばられていない人が、シュテファニー・グラーザーに気づくのである。映画の中で最初にシュテファニー・グラーザーを支えるのは、アメリカ帰りの女性というのも、この土地にしばられない関係を象徴している。
 「移動」と「距離」が、人間の魅力を受け入れる最初の要素なのだ。
 シュテファニー・グラーザーを受け入れる若い女性。娘たち。そこには「年代」の「距離」を超えるという美しいさも存在する。

 この映画には、ほんの少しだけ出て来るだけだか、インターネットの魅力に打つ汁ものをこの映画は提示している。「時間」「場所」という「距離」を超えて、人は夢をかなえる。シュテファニー・グラーザーの夢は、時空の距離を超えるインターネットがあったから実現した。そして、その時空を超えることは、いつだってできる。何かをやるのに遅すぎることはない。美しい才能は、時空を超えて花開く。頑張れ、お年寄りたち、と励ましている。そんなふうにも感じた。
 


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