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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「手でくるんで(1972)」より(4)中井久夫訳

2009-02-04 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
表現されないもの    リッツォス(中井久夫訳)

夕べの空の下で全市が電灯を灯した。
なぜかあのたかさに明滅する明るい赤い灯二つ。
窓。橋。街路。タクシー。バス。
「私だった自転車くらいはあったさ」と彼は言った。「あのころ夢を見ていたんだ」
同じ部屋の女は目を逸らした。口を利かなかった。
そのドレスの右側にはステッチがしてなかった。立ち上がったら
左右の肩の高さが違うことが分かったでしょう。「それ以上は
連中についてはいえない」と彼は言った。「ひびのはいったコップみたいにそっと持って
   おいてくれ」
廃物収集が通るときにひとに頼まずに自分で持って行くようにな。
悪いことを犯しているように必死にやる。朝早くだよ。美しいコップを古新聞にくるんで
階段の手すりにぶつけないかとずっとびくびくしながら--。
ぶっつければ、まだ鳴る力があるよ。殷々と鳴る。遠くまで透る。途中で止められぬ。
窓ガラスと、風と、壁が共謀しているみたいに鳴る。
すると目の見えない楽士がやっとのことで階段を上がって来て、
さて椅子にヴァイオリンのケースを置いて、開ける。中には
三つ揃いの水飲みコップの二つがある、燦然と、疵一つなく--。



 「表現されないもの」--これはリッツォスの詩には非常に多い。きのうの「日記」にも書いたが、まず「物語」が表現されない。そこに書かれるのは「もの」だけである。それは「物語」を構成する要素だが、同時に「物語」を破壊する。「物語」からのがれて、ただそこに存在することによって「詩」になる。「詩」とは理解不能なものである。ただそこにあることを知って、ひとは驚く。そんなふうに存在しうることに驚くのである。そして、その理解できないものを自分の中にとりこみ、納得するために「物語」をつくりだす。
 だが、いつでも伝わっていくものは「物語」ではなく、「物語」を破壊してしまう「詩」だけである。なぜなら、「物語」はそれぞれのひとが必然的につくりだしてしまうものだからである。どんな人間でも、そのひと自身の「物語」をもたないひとはいない。生きていれば必ず何かがある。何かを体験してしまう。生きた「時間」が「物語」をつらぬいてしまう。そして、それはそれぞれ違う。似通っていてもまったく違う。だから「物語」を共有したと感じるのは錯覚であって、それぞれがかってに「物語」を自分に引き寄せているだけである。そのとき、他人の「物語」と自分の「物語」を結びつけるのが、「物語」から逸脱していく「詩」(もの)なのである。
 たとえば「赤い灯」。その「高さ」。あるいは、窓、橋、街路……。それはたしかに「ひびのはいったコップ」みたいなものかもしれない。いつでも壊れてしまう。「もの」であることを止めて「物語」の「時間」のなかに吸収されてしまう。
 そういうはかないものであっても、実は、壊れるときある種類の「音」を響かせる。それをひとは「さびしさ」と呼んだりする。なぜなら、そのとき壊れるのはほんとうは「もの」ではなく、「もの」をそっとかかえている「こころ」だからである。(西脇順三郎なら、絶対に「さびしさ」と呼ぶ。)そして、それは、どこまでもどこまでも、透明なまま響きわたっていく。どこまでも、というのは、時空を超えて、他人の「こころ」のなかをどこまでも、という意味である。
 それはある日、まったく忘れていたとき、つまり「物語」を放棄した瞬間に聞こえてくるかもしれない。そして、それがそんなふうに突然聞こえてくることをだれも止めることができない。

 詩とは、そういうものだと思う。


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