詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

神田さよ『おいしい塩』

2007-01-17 23:57:17 | 詩集
 神田さよ『おいしい塩』(編集工房ノア、2007年1月17日)。
 1月17日。阪神大震災のあった日。詩集の発行日が1月17日になっているのは、その日を忘れたくないという思いが神田にあるからだろう。震災に関する詩が多い。ことばはまだぎくしゃくしている。つらい記憶をことばにするには時間がかかる。「つらい」と簡単に私は書いてしまったけれど、それがほんとうに「つらい」ことなのかどうか、震災を体験した人にはわからないとも思う。衝撃が大きすぎる。何が起きたかわからない。すべてが初めてのことである。初めてのことをことばにするには時間がかかる。どう書いていいのか、その「手本」のようなものがない。二度と体験したくない、という思いが強ければなおさらである。ことばにしなければならないと思いながら、一方でことばにしたくないという思いもあるだろう。その拮抗、精神の、感情の矛盾。その矛盾の中に、「思想」がある。
 震災を直接書いた作品ではないが、「ききょう」にひかれた。

花鋏で
庭のききょうを
一輪切る
二枚の刃の間のわずかな空間は
茎の中の水管をつぶさない
花の息の根をとめない
やさしい刃物 花鋏
白磁の一輪差しに
むらさき色の花
生けられて
生き続ける

 「二枚の刃のわずかな空間は/茎の中の水管をつぶさない」。この繊細なやさしさ。これが神田が震災から引き継いでいるものである。「つぶさない」は「つぶしてはならない」である。つぶされずにあるから生きているのである。
 「わずかな空間」は神田たちがその肉体で実感した貴重な空間でもあるだろう。
 「生けられて/生き続けている」。これも神田の、ききょうに託した心だろうと思う。「生きている」というより「生けられて」(生かされて)いる。そういう思いが、ことばの奥から聞こえてくる。
 生かされているからこそ、そのことを語らなければならない。--その切実な思いが、ことばの奥から響いてくる。
 
 表題の「おいしい塩」もしっかりと肉体をみつめた作品だ。

そのひとが
くれた塩
-おいしい塩
といって

すこし舌にのせる
結晶がくずれ
舌がしびれる
水をのむ
ふたたび
ひとつまみの塩
刺す辛さ
水をのむ
どんどんのむ
体の中が海になる
浮かぶ
沈む


 最後の4行が美しい。生きている喜びがある。生きていれば肉体は海になることもできるのだ。体のなかには神田が飲んだ水がたっぷりたまっている。広がっている。その感じを舌は浮いたり沈んだりする記憶とともに思いだしている。「おいしい」とはこういう「生きている」という肉体の感覚なのだ。
 それを確かめたくて、神田の舌は、ふたたび塩をなめるだろう。

 神田が震災で体験した肉体の苦悩は私には実感できないだろうと思う。それでも、そうしたつらい体験から神田の肉体が塩を味わうまで復活してきたことは、何だかとてもうれしい。「おいしい」という気持ちを、「おいしい」という気持ちのまま受け止めている肉体を、なんだかうれしく思う。
 神田のなめた塩をなめて、水を飲んで、体の中に海が広がるのを感じ、そこで浮き沈みする舌を体験してみたいという気持ちにさせられる。


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