監督 松井久子 出演 エミリー・モーティマー、中村獅童、原田美枝子、竹下景子
松井久子監督の映画を見るのは、これが初めてである。「ユキエ」「折り梅」は見ていない。見ていないことを、とても残念に思った。再上映されるだろうか。再上映されるなら、ぜひ、見てみたい。
映像と人間描写に品がある。その品は、クリント・イーストウッドに近い。描きたいことはたくさんあるだろうけれど、深追いしない。映像に触れて観客のこころが動く。その瞬間、映像はもうおわる。ひとつひとつのシーンがとても簡潔なのである。映像の意味を、そこに動いている人間の行動の意味を押しつけない。
イサム・ノグチの母親の生涯を描いている。そこには信じられないような苦労があったはずである。誰にもいえないような哀しみがあったはずである。日本語も話せないのに、日本にやってきた女性。男女差別が根強い時代。それだけでたいへんなことだと思うが、その苦労、哀しみを押し売りしない。声高に苦労や、哀しみを主張しない。
映画は苦労や哀しみのかわりに、芸術にかける女性の強い意思を描く。「いま」「ここ」にしばられず、どこでもないところへ行こうとする純粋な思いをストレートに描く。
いや、レオニーは、「いま」「ここ」に縛られずに、どこでもないところへ行こうとするのではなく、自分の知らないもの(芸術の美しさ)にふれた瞬間、その美しい世界へ一気に行ってしまう才能をもった人間なのである。その一瞬の飛躍を、この映画は次々に描いている。
最初にヨネ・ノグチと会って、詩の話をする。ヨネ・ノグチの書いた詩を読みながら、レオニーのなかで、ヨネ・ノグチを超えたことばがふっと動く。ヨネ・ノグチのことばを、一段高みへと引き上げる。それが、実に自然だ。苦労してことばを動かすのではなく、彼女の肉体のなかでことばが自然に生まれてくる。それをそのまま声にする--そういう感じである。まるでヨネ・ノグチが詩人であるというよりも、レオニーの方が詩人であり、レオニーはヨネ・ノグチに出会うことで瞬間的に詩人になってしまった、という感じである。
レオニーは絶対的な他者と出会った瞬間に彼女自身を超えてしまうのだ。彼女の限界がなくなるのだ。日本にきて、英語を教える。英語を教えるという名目で、ヨネ・ノグチの知人たちに会う。そのたびにレオニーは人間性の幅を広げていく。
それは相手が教養人(あるいは芸術家)の場合だけとは限らない。家で雇っている「お手伝いさん」の場合も同じである。具体的には描かれていないが、レオニーにそういう不思議な人間性の広がりがあるから、ひとはレオニーを支えるのだ。お手伝いさんは、レオニーに小言(?)を言いながらも、レオニーが娘を産むとき、きちんと産婆をつとめる。そういうところに、レオニーの魅力が静かに描かれている。
この人間が自分を超える瞬間、他人に対してこころを開き、他人の思想に身をゆだねることで生まれ変わるという「生き方」は、イサムにも引き継がれている。それは、彼が、家を建てる大工に鉋のかけ方を習うシーンにさりげなく描かれている。自己主張するのではなく、他人に任せる。それは大工の「木にあわせる」ことで鉋をかけるということとも一脈通じるものがある。
ひとは生きるのではなく、生かされるのだ。生かされることで、生きる以上の何かを手に入れるのだ。
イサム・ノグチが石を彫っているシーンが何度も何度も繰り返されるが、この石の彫刻も、きっとイサム・ノグチが石を彫っているのではなく、石に彫られれているのだ。そういうことを感じさせる。石のなかにある何かが形になろうとして、イサム・ノグチに働きかけてくる。その働きかけに身をまかせて動くとき、そこに芸術が生まれる。
不思議なことに、これはイサム・ノグチとレオニーの関係そのものでもあるようだ。イサム・ノグチは自分から芸術家を目指したわけではない。母が、おまえには芸術の才能がある。医学なんかではなく、芸術分野へと進め、と助言する。イサムにもちろん才能があったことはたしかなのだろうけれど、イサムは母の助言にそうようにして新しい自分をつかみ取る。母と出会うこと(というのは変な表現だが)で、イサムは彫刻家になったのだ。母がいなかったら、医者になっていたのだ。母に生かされて、芸術家に生まれ変わったのだ。
これはなんとも不思議な出会い。不思議な「一期一会」だ。だが、それ以外に、何もないのだ。この世にあるのは「一期一会」の出会いと、その出会いをとおして変わっていくこと、変わっていくことを自分に許すことがあるだけなのだ。
この映画の品(気品といってもいい)は、苦労や哀しみを自己主張しないことにある、と最初に書いたが、「一期一会」は自己主張をしていては成立しないことだから、その描き方はごく自然なこと、当然なことでもあるのだ。
映像、ストーリーとは、あまり関係ないことを書いたような気がする。そんなふうなことを自由に考えさせてくれる広がりをもった映画なのだ。
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「レオニー」広報担当、松井監督と「レオニー」を応援するマイレオニーブログ編集長、shioriと申します(以下の「レオニーサイト」トップページ右下にバナーがあります)。
http://leoniethemovie.com/
谷口さんのブログを拝読して、大変感銘を受けました。「レオニー」をこんなに的確に捉えてくださっているとは!
「苦労、哀しみを押し売りしない。声高に主張しない」
「ヨネのことばを一段高みに引き上げるレオニーのほうが詩人。その自然さ」
「他人に任せる」
こういう感じ方をなさる谷口さんに快哉を叫びました。
私は詩に関してはまったくの半可通ですが(かつて田村隆一さんをインタビューしたことがあるぐらいです。その時、詩人嫌いの田村さんが唯一お好きだという西脇順三郎さんのお話を伺いました。現在親しくさせていただいている詩人は藤富保男さんだけです)、谷口さんのブログは遊び心と刺激に満ちた感性の宝庫だと思いました。ワクワクして楽しかったです!
よろしかったら、マイレオニーブログで谷口さんの文章をご紹介させていただけませんか?
ご検討いただけますようどうぞよろしくお願いいたします。
私はわがままな読者(観客)なので、自分の気に入ったことしか書きません。
そんな文章に共感していただき、たいへんうれしく思いました。