監督 ニール・ジョーダン 出演 キリアン・マーフィー、リーアム・ニーソン
映像が非常に落ち着いている。ゲイの青年が母親を探してロンドンをさまようという「きわもの」っぽい題材なのだが、映像そのものがすっくと立ち上がっているところがいい。映像の姿勢(?)が美しい。誰に対しても媚を売っていない。
この映画では、まず何よりも「空気」が描かれている。主人公やその周囲の人というより、主人公の抱え込む「空気」、主人公が誰かと向き合うとき、そのときどきの「空気」が描かれている。「空気」というのは、あるいは「距離」と言ってもいいかもしれない。主人公と周囲の人との「距離」。遠くから見つめる「距離」、声が聞こえる「距離」、実際に肌と肌が触れ合う「距離」。
主人公(キリアン・マーフィー)と父親である神父(リーアム・ニーソン)の「距離」を見ていくと、とてもおもしろい。「懺悔室」で窓を挟んで声を聞くときの「距離」。覗き窓から神父が主人公を見ながら、一種の告白をする「距離」。後者では神父から主人公はすべて見える。主人公はのぞき窓から逆に神父の姿をのぞこうとするが見えない。そのときの、壁(マジック・ミラー)を隔てた物理的な「距離」は変わらないのに、主人公の意識のなかで「距離」が大きく変化する。単なる客の一人と思っていたのが、事実を告白する父親だとわかった瞬間、こころはぐいぐい神父に近づいていく。そのときに壁(マジック・ミラー)は突然巨大な壁、分厚い壁となって立ちはだかる。そこにある「空気」そのものは物質的には同じ空気なのに、こころの変化によって、まるで違ったものになる。以前と同じものとして胸に吸い込み、吐き出すということができなくなる。
「空気」は「距離」であり、それは瞬間瞬間によって、様相をかえるのである。
私たちは無意識のうちに「空気」を読む。「空気」を判断する。ほんの少しの視線の動き、体の向き、動かし方、その変化のなかに、「真実」がある。人の考えていることがある。「空気」は思想をあらわしている。
この映画は、たとえば主人公のアップ、女装するときの顔のアップの瞬間さえも「空気」として世界をとらえる。鏡と鏡をのぞきこむ瞬間の「距離」には自分を完成させていく意志に満ちた「空気」がそこにある。それに対して、先にあげたマジック・ミラーののぞき窓から逆に神父をのぞくときの主人公の視線の動きと鏡がつくりだす距離には自己を自分で完成させていくという意志はない。そうではなく、他者に頼らなければ自己が完成しないという不安、あるいは逆に自己が完成してしまう一種の恐れのようなものが、「空気」を支配する。
こうした微妙な「空気」の変化そのものを映像として定着させる力はどこから来るのだろうか。たぶんイギリス特有の個人主義からくるのだと思う。イギリスの個人主義は、とてつもなく徹底しているように私には感じられる。人が何かをするのは、その人が自分の判断でするかぎりにおいては誰も批判しない。その人の自由である。だから、かかわりになりたくなければ「距離」をとる。かかわりあいになるにしても、けっして「距離」を見失わず、「距離」を保つ。ここから一種の冷たさが生まれる。しかし、「距離」があるから、同時にユーモアも生まれる。自分を自分から突き放して、「距離」をつくり、その「距離」を攪拌してしまうのだ。今そこに存在する「距離」が誰の視点から見つめたものかわからないものにしてしまうのだ。
この冷徹さがあるから、「空気」に品が生まれる。その品が、空気を屹立したものにみせる。
映像が非常に落ち着いている。ゲイの青年が母親を探してロンドンをさまようという「きわもの」っぽい題材なのだが、映像そのものがすっくと立ち上がっているところがいい。映像の姿勢(?)が美しい。誰に対しても媚を売っていない。
この映画では、まず何よりも「空気」が描かれている。主人公やその周囲の人というより、主人公の抱え込む「空気」、主人公が誰かと向き合うとき、そのときどきの「空気」が描かれている。「空気」というのは、あるいは「距離」と言ってもいいかもしれない。主人公と周囲の人との「距離」。遠くから見つめる「距離」、声が聞こえる「距離」、実際に肌と肌が触れ合う「距離」。
主人公(キリアン・マーフィー)と父親である神父(リーアム・ニーソン)の「距離」を見ていくと、とてもおもしろい。「懺悔室」で窓を挟んで声を聞くときの「距離」。覗き窓から神父が主人公を見ながら、一種の告白をする「距離」。後者では神父から主人公はすべて見える。主人公はのぞき窓から逆に神父の姿をのぞこうとするが見えない。そのときの、壁(マジック・ミラー)を隔てた物理的な「距離」は変わらないのに、主人公の意識のなかで「距離」が大きく変化する。単なる客の一人と思っていたのが、事実を告白する父親だとわかった瞬間、こころはぐいぐい神父に近づいていく。そのときに壁(マジック・ミラー)は突然巨大な壁、分厚い壁となって立ちはだかる。そこにある「空気」そのものは物質的には同じ空気なのに、こころの変化によって、まるで違ったものになる。以前と同じものとして胸に吸い込み、吐き出すということができなくなる。
「空気」は「距離」であり、それは瞬間瞬間によって、様相をかえるのである。
私たちは無意識のうちに「空気」を読む。「空気」を判断する。ほんの少しの視線の動き、体の向き、動かし方、その変化のなかに、「真実」がある。人の考えていることがある。「空気」は思想をあらわしている。
この映画は、たとえば主人公のアップ、女装するときの顔のアップの瞬間さえも「空気」として世界をとらえる。鏡と鏡をのぞきこむ瞬間の「距離」には自分を完成させていく意志に満ちた「空気」がそこにある。それに対して、先にあげたマジック・ミラーののぞき窓から逆に神父をのぞくときの主人公の視線の動きと鏡がつくりだす距離には自己を自分で完成させていくという意志はない。そうではなく、他者に頼らなければ自己が完成しないという不安、あるいは逆に自己が完成してしまう一種の恐れのようなものが、「空気」を支配する。
こうした微妙な「空気」の変化そのものを映像として定着させる力はどこから来るのだろうか。たぶんイギリス特有の個人主義からくるのだと思う。イギリスの個人主義は、とてつもなく徹底しているように私には感じられる。人が何かをするのは、その人が自分の判断でするかぎりにおいては誰も批判しない。その人の自由である。だから、かかわりになりたくなければ「距離」をとる。かかわりあいになるにしても、けっして「距離」を見失わず、「距離」を保つ。ここから一種の冷たさが生まれる。しかし、「距離」があるから、同時にユーモアも生まれる。自分を自分から突き放して、「距離」をつくり、その「距離」を攪拌してしまうのだ。今そこに存在する「距離」が誰の視点から見つめたものかわからないものにしてしまうのだ。
この冷徹さがあるから、「空気」に品が生まれる。その品が、空気を屹立したものにみせる。