石井遊佳「百年泥」(「文藝春秋」2018年03月号)
石井遊佳「百年泥」は第百五十八回芥川賞受賞作。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同時に読んだのだが、「おらおらで……」があまりにひどくて、感想を書きながらがっかりした。その影響で「百年泥」の感想を書くのがいやになった。ほうっておいたのだが、でも、書いてみるか。
この小説は書き出しの一行がすべてを語っている。それ以上のことは、書かれていない。(ページは「文藝春秋」)
「果報者」ということばが、すべてである。
「百年に一度の洪水に遭った」なら、そこに住む人にはとって、それは「果報」ではありえない。洪水に生活を奪われることは「不幸」である。なぜ、「果報」といえるのか。「私」が「生活(財産)」を洪水で奪われなかったからではない。もちろん奪われなかったということもあるかもしれないが、それだけで「果報」とは言えない。「私」がそれを「果報」と言えるのは、「洪水」のおかげで「ことば」を発することができるからだ。
これは「主人公」の「声」というよりも、作者の声である。「あ、これを題材に小説が書ける」という喜び、題材の発見を「果報」と呼んでいるのだ。言い換えると、この小説では「私」と「作者」が区別がつかなくなっている。「私小説」というのではない。それ以下だ。
私は、チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った。
と書いても、「事実」はかわらない。「私」がチェンナイに生活して三か月半になる。大洪水があった。大雨が降った。それは百年に一度の規模のものである。これで十分なはず。
こういう「事実」に「果報者である」という「感想」をまぎれこませる。
いや、「果報者」という感想を書いてもいいのかもしれないが、それならもっと「果報」を読者が驚くくらい書き込まないといけない。単に書くことがあっていい。でたらめを書いても許される、というのでは「果報」には感じられない。
古い男とのやりとりなんか思い出して、それで幸せになれる? 日本語学校の生徒の過去だとかを知って、それで「果報」と言える? 日本語学校の、生徒の「間違った日本語」を聞いて、それを「正しくなおす」のに苦労する、というようなことが「果報」?
鬱憤を晴らしているだけだ。怨み、つらみを書き綴っても、受け入れてもらえる。これは「果報だ」というのは、完全に個人的な感想である。
「日本語学校」の体験、チェンナイ(インド)の体験を小説にできるという「果報」に酔っているだけだ。
文体は、若竹千佐子ほどぐちゃぐちゃではないかもしれないが、非常に気になる「書き方」がある。何回も出てくる。てきとうにページを開いて、斜め読みするのだが、
「先に述べた」って、なんだ?
「論文」ならこういう書き方はあるだろうが、小説で「先に述べた」なんていう顔の出し方をされたら、ぞっとする。たとえ「私小説」であっても。だって、これは「感想」になっていないだろう。
「果報者だ」という感想には、まあ、題材に困っている小説家は共感できるだろうが、「先に述べた」なんていわれても、感情は動かない。「記憶力をテストされているみたいだ。
先に書いたかどうか、もう一度読者に思い出してもらわないと先に進めない小説なんて、小説ではないだろう。「あっ、これは先に書いたあったことが違う形でもう一度言いなおされたものだな」と読者がかってに判断すればいい。気づかなければ気づかないでいい。作者の書き方が悪い(印象に残らない書き方をしている)か、読者が読み落としているかだけのことである。
だいたい「後年」と「先に述べた」の「枠構造」が「説明」としてつかわれるのは、小説ではないだろう。先に書いてあったこと(過去)が、時間が進むにつれて(小説が展開するにつれて)、ひとつの「カタルシス」というか「結論」に向かって動いていくのが小説というものであって、「この結果(後年獲得することになった結果)は、先に述べたとおりである」なんて、ばかばかしいにもほどがある。
奇想天外なストーリー(空を飛ぶ人間が出てくる)、埋もれていた「過去」がよみがえるなど、「魔術的リアリズム」が売り物のようだが、タイトルもガルシア・マルケスの「百年の孤独」を意識してのものなのだろうが、「三十年泥」がせいぜいのところで、口の悪い人なら「三日泥」というだろうなあ。
だいたい「過去」なんて、何年でも遡れる。「過去」ではなく「未来」へ向けての「百年」でなければ「小説」の意味がない。「いま」を出発点として、未来へつづいていくのが「小説のことば」。「過去」なんて「日記」だ。
こんな「日記」にすぎないものが、なぜ芥川賞に選ばれたのか。やっぱり若竹千佐子がいきなり満票(過半数だっけ?)をあつめ、「当選」が決まったために、大慌てで選考をやりなおしたんだろうなあ。若竹の小説が受賞作なら、もっといいのがある。これを落とすのはどうか。ということで、いくらかましな石井の作品が選ばれたということだろう。受賞作の紹介も「百年泥」が先である。芥川賞で本を売らないと、本が売れる機会がないというのはわかるけれど、こんな小説を売っていたらますます本が売れなくなりはしないだろうか。
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
石井遊佳「百年泥」は第百五十八回芥川賞受賞作。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同時に読んだのだが、「おらおらで……」があまりにひどくて、感想を書きながらがっかりした。その影響で「百年泥」の感想を書くのがいやになった。ほうっておいたのだが、でも、書いてみるか。
この小説は書き出しの一行がすべてを語っている。それ以上のことは、書かれていない。(ページは「文藝春秋」)
チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるかもしれない。 (344ページ)
「果報者」ということばが、すべてである。
「百年に一度の洪水に遭った」なら、そこに住む人にはとって、それは「果報」ではありえない。洪水に生活を奪われることは「不幸」である。なぜ、「果報」といえるのか。「私」が「生活(財産)」を洪水で奪われなかったからではない。もちろん奪われなかったということもあるかもしれないが、それだけで「果報」とは言えない。「私」がそれを「果報」と言えるのは、「洪水」のおかげで「ことば」を発することができるからだ。
これは「主人公」の「声」というよりも、作者の声である。「あ、これを題材に小説が書ける」という喜び、題材の発見を「果報」と呼んでいるのだ。言い換えると、この小説では「私」と「作者」が区別がつかなくなっている。「私小説」というのではない。それ以下だ。
私は、チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った。
と書いても、「事実」はかわらない。「私」がチェンナイに生活して三か月半になる。大洪水があった。大雨が降った。それは百年に一度の規模のものである。これで十分なはず。
こういう「事実」に「果報者である」という「感想」をまぎれこませる。
いや、「果報者」という感想を書いてもいいのかもしれないが、それならもっと「果報」を読者が驚くくらい書き込まないといけない。単に書くことがあっていい。でたらめを書いても許される、というのでは「果報」には感じられない。
古い男とのやりとりなんか思い出して、それで幸せになれる? 日本語学校の生徒の過去だとかを知って、それで「果報」と言える? 日本語学校の、生徒の「間違った日本語」を聞いて、それを「正しくなおす」のに苦労する、というようなことが「果報」?
鬱憤を晴らしているだけだ。怨み、つらみを書き綴っても、受け入れてもらえる。これは「果報だ」というのは、完全に個人的な感想である。
「日本語学校」の体験、チェンナイ(インド)の体験を小説にできるという「果報」に酔っているだけだ。
文体は、若竹千佐子ほどぐちゃぐちゃではないかもしれないが、非常に気になる「書き方」がある。何回も出てくる。てきとうにページを開いて、斜め読みするのだが、
後年私がつねに獲得することになった定評について先に述べたが、実のところ、
「おまえさ、ほんと口ないのかよ。なんか言えば? ったく愛想のない女だね」
(387ページ)
「先に述べた」って、なんだ?
「論文」ならこういう書き方はあるだろうが、小説で「先に述べた」なんていう顔の出し方をされたら、ぞっとする。たとえ「私小説」であっても。だって、これは「感想」になっていないだろう。
「果報者だ」という感想には、まあ、題材に困っている小説家は共感できるだろうが、「先に述べた」なんていわれても、感情は動かない。「記憶力をテストされているみたいだ。
先に書いたかどうか、もう一度読者に思い出してもらわないと先に進めない小説なんて、小説ではないだろう。「あっ、これは先に書いたあったことが違う形でもう一度言いなおされたものだな」と読者がかってに判断すればいい。気づかなければ気づかないでいい。作者の書き方が悪い(印象に残らない書き方をしている)か、読者が読み落としているかだけのことである。
だいたい「後年」と「先に述べた」の「枠構造」が「説明」としてつかわれるのは、小説ではないだろう。先に書いてあったこと(過去)が、時間が進むにつれて(小説が展開するにつれて)、ひとつの「カタルシス」というか「結論」に向かって動いていくのが小説というものであって、「この結果(後年獲得することになった結果)は、先に述べたとおりである」なんて、ばかばかしいにもほどがある。
奇想天外なストーリー(空を飛ぶ人間が出てくる)、埋もれていた「過去」がよみがえるなど、「魔術的リアリズム」が売り物のようだが、タイトルもガルシア・マルケスの「百年の孤独」を意識してのものなのだろうが、「三十年泥」がせいぜいのところで、口の悪い人なら「三日泥」というだろうなあ。
だいたい「過去」なんて、何年でも遡れる。「過去」ではなく「未来」へ向けての「百年」でなければ「小説」の意味がない。「いま」を出発点として、未来へつづいていくのが「小説のことば」。「過去」なんて「日記」だ。
こんな「日記」にすぎないものが、なぜ芥川賞に選ばれたのか。やっぱり若竹千佐子がいきなり満票(過半数だっけ?)をあつめ、「当選」が決まったために、大慌てで選考をやりなおしたんだろうなあ。若竹の小説が受賞作なら、もっといいのがある。これを落とすのはどうか。ということで、いくらかましな石井の作品が選ばれたということだろう。受賞作の紹介も「百年泥」が先である。芥川賞で本を売らないと、本が売れる機会がないというのはわかるけれど、こんな小説を売っていたらますます本が売れなくなりはしないだろうか。
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
![]() | 百年泥 第158回芥川賞受賞 |
クリエーター情報なし | |
新潮社 |