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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中島悦子『野良犬のいた頃』

2022-02-17 11:46:04 | 詩集

中島悦子『野良犬のいた頃』(虎芳書林、2021年11月01日発行)

 中島悦子『野良犬のいた頃』はエッセイ集(だと思う)。ところどころ拾い読みした。「野良犬のいた頃」は野良犬のことを書いていて、突然、山下清の話に変わる。

 山下清の「東海道五十三次」の語録を読んだ時、なぜか野良犬のいた頃を思い出した。

 山下清の語録に野良犬が出てくるのかどうか知らないが、中島が引用している部分には出てこない。「なぜか」と中島自身が書いているが、なぜ、中島は思い出したのだろうか。それを少しずつ突き止めようとしてことばが動いていく。

自分の居場所がないと追い詰められたり、反対に必要以上に他人を攻撃したり、殺伐としているように思えてならない。加減というものが分からないかのようだ。あるいは、余白がないのだろうか。

 「自分の居場所」や「攻撃(性)」に「野良犬」が重なってくる。そして、そこから「加減」ということばを引き出してくる。この過程は、「なぜか」の説明になっているかどうかはよくわからないが、そのよくわからないけれど、なんとなくわかるという「加減」がいいのかもしれない。
 そこから飛躍して(?)、「加減」を「余白」と言いなおしているところが、まあ、詩人ならではのことばの動きかもしれない。ふつうなら(詩人でなければ)、「余裕」とか「あそび」と言うかもしれない。
 なぜ、「余白」と書いたのか。
 実は、ここから中島の「詩」が動き出すのである。この「余白」ということばを踏み台にして、ことばが飛躍する。
 山下清の「桜の花(流れていく花びら)」について書いた文章がきっかけなのだが、そこに「野良犬」が呼び出されてくるところが、なかなかおもしろい。ここでは引用しない。買って読んでください。

 この「加減」に関する思いは、バズ・ドライシンガーの『囚われし者たちの国』(紀伊國屋書店)の書評では「ほぐす」という動詞になってあらわれてくる。そういう「ことばの旅」を読むのは楽しい。

 


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