三井喬子『青天の向こうがわ』(思潮社、2009年09月30日発行)
「アンブレラ」という作品がある。書き出しはとても快調である。
「アンブレラ」が何なのかわからない。わからないけれど、私はこの書き出しはとても気に入っている。リズムがいい。こんなふうにリズムがいいと「アンブレラ」が何かの比喩である--ということは、考えなくてすむ。実際にアンブレラが降ってくるのが見える。
そしてそれは「傘」あるいは「雨傘」ではない。「傘」あるいは「雨傘」から具体的な形を消し去った、変なものである。一瞬「傘」のように見えるけれど、その形はすぐに消えて、「アンブレラ」という「音」になっている。
「音」が「音」のまま、降っている。
それで、どうしたの、と言われるとちょっと困るが、その「降ってくる」という唐突さがいいのだ。
雨だって、雪だって、降ってくるときは「唐突」である。--つまり、「私」に対して、いまから降っていいですか?というようなことは聞かずに、勝手に降ってくる、という意味で「唐突」である。雨が降ってくること、雪が降ってくることを、どうにかするということはできない。そういうものがある。
「アンブレラ」もそういうものである。そういうものが、何かわからないから、ともかく「音」として降ってくるのである。
そのことに共感できなかったら、まあ、この詩は、その人にとって詩ではない、ということになる。
ということを私は書きたいのではない。実は。
この詩の書き出しは、とてもおもしろい。けれど、最後がとてもつまらない。
あらら。「アンブレラ」はどうもほんもののアンブレラみたい。歩道橋(たぶん)から投身した人のもっていたもの。自殺した人はそこにはもういないけれど、アンブレラが取り残されている。あるいは、その「投身自殺」は幻(空想)でもいいのだけれど、その死んでしまった人から取り残されたアンブレラから刺戟を(インスピレーション)を受けて書いたのが、この詩、ということになる。
三井はことばの運動の「種明かし」をしている。
それが、とてもつまらない。
「青鈍色の/その世界の 底に。」の「青鈍色」というのは「車道」のアスファルトの色である。そういうものを最後に出してしまうと、ことばの自由な運動は、自由ではなくなってしまう。「比喩」に落ちていってしまう。詩は比喩の言い換えではない。
ちょっと違った言い方をしてみる。違った部分から三井の詩に近づいてみる。
誰にでも「キイワード」というものがある。私が「キイワード」と呼んでいるのは、その作者の「肉体」にしみついてしまって、作者から切り離すことのできない「思想」のことである。そして、私が問題にする「キイワード」はたいがいごくごく「平凡」なことばである。現代思想のキイワードのようにかっこいいことばではなく、書いた人さえ書いたことを忘れるような(つまり、深い意味をこめずに書いてしまう)ことばである。
三井のキイワードは何か。
「秋」という作品に出てくる。この「秋」も書き出しはとてもおもしろい。
書き出しがおもしろいと書いたが、実は、その書き出しに、「つまらない」ものがある。「と 言うべきか」という1行である。そして、これが三井の「キイワード」(肉体としての思想)である。
「と 言うべきか」という1行はなくても、この書き出し、1連目は成立する。というよりも、ない方がスピード感があっていい。「と 言うべきか」という1行がことばのスピード、自由さを奪っている。
それまでに登場する「足」は特権的に「足」であった。「足」以外の何ものでもない。説明を拒否して、ただ「足」だった。わからなければわからなくていい。「足」が見える人にだけ「足」が見えればいい--という足だった。
そのあとも、そういう「足」にかわりはない、と三井は言うかもしれないが「と 言うべきか」という説明、補足が、実はその「足」には三井の思いがこもっていると告げてしまうのだ。そして、その「思い」が、重くするのだ。ことばを。
三井の詩には、いつでも「と 言うべきか」が隠れている。存在している。もし、三井の詩の展開(ことばの運動)が見えにくくなったら、そこに「と 言うべきか」という1行を補ってみると、私の書いていることがわかりやすくなるかもしれない。
快調なことば運びのときは、「と 言うべきか」が省略されている。ところが、ことばを動かしている内に、三井は、ときどき不安になるのだと思う。どこかで説明しなくてはいけないのではないだろうか。ことばは「論理」(説明)を省略したまま、勝手にどこまでも暴走してしまっていいのだろうか。そいういう不安にかられて、思わず「と 言うべきか」と書いてしまう。書かないまでも、それを「意識」のなかで動かしてしまう。その瞬間に、ことばが失速する。詩が詩ではなくなる。
こんな感想は、詩集の紹介としては不向きなものなのかもしれない。三井の詩の魅力をつたえるということとは、まったく逆のことを書いているのだから。しかし、どうしてもそう書かずにいられなくなった。
三井は、私がいま書いたような「癖」をもっている一方で、とても魅力的なことばも書いている。たとえば、「生誕」の次の2行。
わ、すごい。夢に見てしまいそうだ。「生誕」というタイトルなのだけれど、そこには「死」の影があって、そしてその「死」によって「いのち」がいっそう輝くような矛盾した運動。こういう自由なことばと一緒に走っている人は「と 言うべきか」などという「思想」でそのスピードを殺してはいけない。もっともっと、ただただ走って、そのスピードにことばが悔しくなって、(ライバル心を燃やして)、ことばが自分自身の力で、思わず三井を追い越してしまうくらいになると、詩がとっても楽しくなると思う。
詩人は、詩のことばを説明してはいけないのだ。
「アンブレラ」という作品がある。書き出しはとても快調である。
お忙しいところ申し訳ありませんがアンブレラ
降ってます降ってますアンブレラ
天使さんが降ってますアンブレラ。
白い小さな形だけれど
当たると痛いアンブレラ
「アンブレラ」が何なのかわからない。わからないけれど、私はこの書き出しはとても気に入っている。リズムがいい。こんなふうにリズムがいいと「アンブレラ」が何かの比喩である--ということは、考えなくてすむ。実際にアンブレラが降ってくるのが見える。
そしてそれは「傘」あるいは「雨傘」ではない。「傘」あるいは「雨傘」から具体的な形を消し去った、変なものである。一瞬「傘」のように見えるけれど、その形はすぐに消えて、「アンブレラ」という「音」になっている。
「音」が「音」のまま、降っている。
それで、どうしたの、と言われるとちょっと困るが、その「降ってくる」という唐突さがいいのだ。
雨だって、雪だって、降ってくるときは「唐突」である。--つまり、「私」に対して、いまから降っていいですか?というようなことは聞かずに、勝手に降ってくる、という意味で「唐突」である。雨が降ってくること、雪が降ってくることを、どうにかするということはできない。そういうものがある。
「アンブレラ」もそういうものである。そういうものが、何かわからないから、ともかく「音」として降ってくるのである。
そのことに共感できなかったら、まあ、この詩は、その人にとって詩ではない、ということになる。
ということを私は書きたいのではない。実は。
この詩の書き出しは、とてもおもしろい。けれど、最後がとてもつまらない。
どちらへ行きますかアンブレラ。
重たい後悔を載せたまま
手すりを越える
まだ張り出しがあるアンブレラ
アンブレラアンブレラ
天使さんはもう消えちゃった。
踏み出せば
たった一歩ですぞアンブレラ。
定められていることではありますが
落ちてみますかアンブレラ
青鈍色の
その世界の 底に。
あらら。「アンブレラ」はどうもほんもののアンブレラみたい。歩道橋(たぶん)から投身した人のもっていたもの。自殺した人はそこにはもういないけれど、アンブレラが取り残されている。あるいは、その「投身自殺」は幻(空想)でもいいのだけれど、その死んでしまった人から取り残されたアンブレラから刺戟を(インスピレーション)を受けて書いたのが、この詩、ということになる。
三井はことばの運動の「種明かし」をしている。
それが、とてもつまらない。
「青鈍色の/その世界の 底に。」の「青鈍色」というのは「車道」のアスファルトの色である。そういうものを最後に出してしまうと、ことばの自由な運動は、自由ではなくなってしまう。「比喩」に落ちていってしまう。詩は比喩の言い換えではない。
ちょっと違った言い方をしてみる。違った部分から三井の詩に近づいてみる。
誰にでも「キイワード」というものがある。私が「キイワード」と呼んでいるのは、その作者の「肉体」にしみついてしまって、作者から切り離すことのできない「思想」のことである。そして、私が問題にする「キイワード」はたいがいごくごく「平凡」なことばである。現代思想のキイワードのようにかっこいいことばではなく、書いた人さえ書いたことを忘れるような(つまり、深い意味をこめずに書いてしまう)ことばである。
三井のキイワードは何か。
「秋」という作品に出てくる。この「秋」も書き出しはとてもおもしろい。
仰臥するわたしの
上を 大きな足が通りすぎて行く
こんな夜更けに
草を刈り
野を広げ。
さまざまな足が過ぎて行く
足裏から血を流し
早かったり 遅かったりしながら。
理不尽の足の裏
不可知の足の裏
と 言うべきか
裸足の 偏平足の
重く また軽い足どりが過ぎて行く
ときに踊るように。
書き出しがおもしろいと書いたが、実は、その書き出しに、「つまらない」ものがある。「と 言うべきか」という1行である。そして、これが三井の「キイワード」(肉体としての思想)である。
「と 言うべきか」という1行はなくても、この書き出し、1連目は成立する。というよりも、ない方がスピード感があっていい。「と 言うべきか」という1行がことばのスピード、自由さを奪っている。
それまでに登場する「足」は特権的に「足」であった。「足」以外の何ものでもない。説明を拒否して、ただ「足」だった。わからなければわからなくていい。「足」が見える人にだけ「足」が見えればいい--という足だった。
そのあとも、そういう「足」にかわりはない、と三井は言うかもしれないが「と 言うべきか」という説明、補足が、実はその「足」には三井の思いがこもっていると告げてしまうのだ。そして、その「思い」が、重くするのだ。ことばを。
三井の詩には、いつでも「と 言うべきか」が隠れている。存在している。もし、三井の詩の展開(ことばの運動)が見えにくくなったら、そこに「と 言うべきか」という1行を補ってみると、私の書いていることがわかりやすくなるかもしれない。
落ちてみますかアンブレラ
青鈍色の
その世界の 底に。
と 言うべきか
歩道橋の下の道に。
快調なことば運びのときは、「と 言うべきか」が省略されている。ところが、ことばを動かしている内に、三井は、ときどき不安になるのだと思う。どこかで説明しなくてはいけないのではないだろうか。ことばは「論理」(説明)を省略したまま、勝手にどこまでも暴走してしまっていいのだろうか。そいういう不安にかられて、思わず「と 言うべきか」と書いてしまう。書かないまでも、それを「意識」のなかで動かしてしまう。その瞬間に、ことばが失速する。詩が詩ではなくなる。
こんな感想は、詩集の紹介としては不向きなものなのかもしれない。三井の詩の魅力をつたえるということとは、まったく逆のことを書いているのだから。しかし、どうしてもそう書かずにいられなくなった。
三井は、私がいま書いたような「癖」をもっている一方で、とても魅力的なことばも書いている。たとえば、「生誕」の次の2行。
路上電車の軌道の左右に
二つに分かれようとして繋がっている 一人の子供。
わ、すごい。夢に見てしまいそうだ。「生誕」というタイトルなのだけれど、そこには「死」の影があって、そしてその「死」によって「いのち」がいっそう輝くような矛盾した運動。こういう自由なことばと一緒に走っている人は「と 言うべきか」などという「思想」でそのスピードを殺してはいけない。もっともっと、ただただ走って、そのスピードにことばが悔しくなって、(ライバル心を燃やして)、ことばが自分自身の力で、思わず三井を追い越してしまうくらいになると、詩がとっても楽しくなると思う。
詩人は、詩のことばを説明してはいけないのだ。
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