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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(1)

2006-11-25 12:06:42 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 『氷った焔』かち「石膏」。その最終連。

石膏の皮膚をやぶる血の洪水
針の尖で鏡を突き刺す さわやかなその腐臭

石膏の均整を犯す焔の循環
獣の舌で星を舐め取る きよらかなその暗涙

ざわめく死の群の輪舞のなかで
きみと宇宙をぼくに一致せしめる
最初の そして 涯しらぬ夜

 「きみと宇宙をぼくに一致せしめる」の「一致」。清岡は常にある存在とある存在、かけはなれたものを「一致」させる。詩は異質なものの出会いによって生まれるが、清岡はその出会いを出会いのまま終わらせない。出会ったものを「一致」させる。
 この詩はいささか欲張りにできていて、「きみ」(石膏)と「ぼく」が一致するだけではなく、「石膏」がかかえている「宇宙」と「ぼく」が「一致」する。
 これは「石膏」のかかえる「宇宙」と「ぼく」がかかえる「宇宙」が出会い、そのふたつの「宇宙」が「一致」するという意味である。そして、このとき「一致」とは「融合する」「合体する」、そしてその結果「ひとつ」の存在になるということである。
 「石膏」と「ぼく」はもちろん別々の輪郭をもっていて、融合することも、合体することもできない。しかし、それぞれの「宇宙」はどうか。「宇宙」はもちろん「比喩」である。そして「比喩」であるからこそ、それは「一致」する。融合する。合体する。「ひとつ」になる。

 いま、私は、清岡が「宇宙」ということばを詩のなかでどれくらいつかっているか思い出すことができないが、この作品に書かれている「宇宙」、比喩としての「宇宙」は、清岡の作品にとって非常に重要なことばだと思う。
 清岡はある存在と別の存在、この詩では「石膏」と「ぼく」を描くが、そうしたふたつの存在はかならず融合する。ふたつの存在の間には深くは意識されていない「間」(空間、時間を含める広がり)がある。その「間」を丁寧にことばで測り、触れ合えるなにかを探す。そして、その触れ合えるものを手がかりに、少しずつ「間」を縮めていく。あるいは、ことばでその「間」を埋めていく。そのとき、そこにいままで見えなかった「世界」が広がり、すべてが融合する。そして新しい「世界」になる。
 この「間」(空間、時間)、そして新しい「世界」はすべて「宇宙」ということば、「宇宙」という比喩でも代弁できるものである。

 この詩のなかのもうひとつ大切なことばは「と」である。

きみと宇宙をぼくに一致せしめる

 この行は、たぶん「きみの宇宙とぼくの宇宙とを一致せしめる」と言い換えることができる。(少なくとも、私は、そんなふうにことばを補ってこの作品を読んでいる。)この作品で描かれているのは「きみ(石膏)の宇宙」と「ぼくの宇宙」であり、それを分離すると同時に結びつけているのが「と」という格助詞である。
 「と」ということばがなければ、清岡の作品は成立しない。
 石膏「と」ぼく。「と」によってふたつのものが出会い、その「間」を測り、そこに出現するものをことばで埋める。そこに広がる「宇宙」がやがて、「石膏」と「ぼく」をのみこむように融合・合体する。
 そしてそのとき「と」は消えていく。

 消えていくための「と」、消滅するための「と」。そこに清岡の「詩」がある。清岡の作品は「と」によって誕生し、「と」の消滅によって完成する。
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