クラウス・レーフレ監督「ヒトラーを欺いた黄色い星」(★★★★)
監督 クラウス・レーフレ 出演 マックス・マウフ、アリス・ドワイヤー、ルビー・O ・フィー、アーロン・アルタラス、ビクトリア・シュルツ
とても地味な映画である。なぜ地味かというと、ヒトラー政権下のベルリンに潜伏し生き延びたユダヤ人を描いているからである。潜伏するということは、社会と隔離されること。つまり情報がない。彼らが見聞きするのは世界の一部に過ぎない。いまのようにネットがないのはもちろんだが、テレビもない。ラジオはあるが自由に聞けるわけではない。
だから、劇的なことは起こらない。唯一、友人が電話をかけた後、ゲシュタポに逮捕されるくらいである。幾分のはらはらはあるけれど、彼らが生き延びることはすでにわかっている。経験者が証言しているのだから、彼らが死ぬはずがない。
それなのに。
引き込まれる。私は自動販売機で買ったアイスコーヒーを一口飲んだだけで、後は飲むのを忘れてしまった。
なぜなんだろうか。
そこに描かれていることが「事実」だからである。そして「事実」というのは不思議なことに「全体」がなくても成立する。いや、ユダヤ人虐殺という「全体」はすでにだれもが知っているから、「全体」がないということにはならないが。しかし、この映画に登場する人たちは、生き延びているあいだ(潜伏しているあいだ)、「全体」を知らない。知らないというよりも「わからない」。
匿ってくれる人がいるにしろ、その人がいつまで匿ってくれるのか、それが「わからない」。いつ隠れ家を出て行かなければならないのか、隠れ家を出てしまったらどうなるのか、「わからない」。
「わかる」のは、いま、自分が生きているということだけだ。生きていくために何をしなければならないか、それを考えなければならない。それだけが「わかる」。「わかる」ことだけが「事実」として目の前にある。それ以外に「世界」がない。
そして、「わかっている」のに、やはり失敗もする。身分証明証の偽造をしながら、せっかくつくった証明書をストーブで燃やしてしまうということもある。鞄を電車の中に忘れるということもある。
この緊張感が、「映画」のように緊張感を誇張するのではなく、淡々と描かれる。映画なのに、である。そこに引き込まれる。「映画」を見ているのではなく、「事実」を見ているという気持ちになる。
さらに、映画を見終わった後、これは「事実」のほんの一部に過ぎないということも知らされる。四人が証言しているだけなのだから。語られない「事実」がもっともっとあるのだ。語られないことがあって、いまがある。そのことにも衝撃を受ける。
それにしても、人間とはすごいものだと思う。どんなときにも、自分自身の考えを持ち、自分で行動する力がある。嘘をつくことを含めて、人には生きる力がある。生き延びた人が主人公なので、それを支えた人は「脇役」に徹しているが、「脇役」の人もそれぞれが考えて生きている。最後に「ユダヤ人を匿うのは、ドイツ(国家)を救うためだ」と言われたとひとりが語る。アメリカで講演するときは、匿ってくれた人の名前をひとりひとり挙げる、と女性が証言する。女性が必ず名前をあげるというドイツ人もまたヒトラーの政権下を生き延びた人なのだと知らされる。
映画の登場人物は、歴史に名前を残す「立派な人」ではない。でも、そうであることが、立派なのだ。生きている、生きるために自分でできることをする、ということがかけがえのないことなのだ。
ひるがえって。
いま日本で、安倍独裁政権を「生き延びる」人が何人いるか。日本のために「生き延びる」人が何人いるか。日本のために、というのは、世界のために、でもある。どうやって安倍独裁政権を「生き延び」、未来を生きるのか、そのことを問われたような気持ちにもなった。
(2018年08月29日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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監督 クラウス・レーフレ 出演 マックス・マウフ、アリス・ドワイヤー、ルビー・O ・フィー、アーロン・アルタラス、ビクトリア・シュルツ
とても地味な映画である。なぜ地味かというと、ヒトラー政権下のベルリンに潜伏し生き延びたユダヤ人を描いているからである。潜伏するということは、社会と隔離されること。つまり情報がない。彼らが見聞きするのは世界の一部に過ぎない。いまのようにネットがないのはもちろんだが、テレビもない。ラジオはあるが自由に聞けるわけではない。
だから、劇的なことは起こらない。唯一、友人が電話をかけた後、ゲシュタポに逮捕されるくらいである。幾分のはらはらはあるけれど、彼らが生き延びることはすでにわかっている。経験者が証言しているのだから、彼らが死ぬはずがない。
それなのに。
引き込まれる。私は自動販売機で買ったアイスコーヒーを一口飲んだだけで、後は飲むのを忘れてしまった。
なぜなんだろうか。
そこに描かれていることが「事実」だからである。そして「事実」というのは不思議なことに「全体」がなくても成立する。いや、ユダヤ人虐殺という「全体」はすでにだれもが知っているから、「全体」がないということにはならないが。しかし、この映画に登場する人たちは、生き延びているあいだ(潜伏しているあいだ)、「全体」を知らない。知らないというよりも「わからない」。
匿ってくれる人がいるにしろ、その人がいつまで匿ってくれるのか、それが「わからない」。いつ隠れ家を出て行かなければならないのか、隠れ家を出てしまったらどうなるのか、「わからない」。
「わかる」のは、いま、自分が生きているということだけだ。生きていくために何をしなければならないか、それを考えなければならない。それだけが「わかる」。「わかる」ことだけが「事実」として目の前にある。それ以外に「世界」がない。
そして、「わかっている」のに、やはり失敗もする。身分証明証の偽造をしながら、せっかくつくった証明書をストーブで燃やしてしまうということもある。鞄を電車の中に忘れるということもある。
この緊張感が、「映画」のように緊張感を誇張するのではなく、淡々と描かれる。映画なのに、である。そこに引き込まれる。「映画」を見ているのではなく、「事実」を見ているという気持ちになる。
さらに、映画を見終わった後、これは「事実」のほんの一部に過ぎないということも知らされる。四人が証言しているだけなのだから。語られない「事実」がもっともっとあるのだ。語られないことがあって、いまがある。そのことにも衝撃を受ける。
それにしても、人間とはすごいものだと思う。どんなときにも、自分自身の考えを持ち、自分で行動する力がある。嘘をつくことを含めて、人には生きる力がある。生き延びた人が主人公なので、それを支えた人は「脇役」に徹しているが、「脇役」の人もそれぞれが考えて生きている。最後に「ユダヤ人を匿うのは、ドイツ(国家)を救うためだ」と言われたとひとりが語る。アメリカで講演するときは、匿ってくれた人の名前をひとりひとり挙げる、と女性が証言する。女性が必ず名前をあげるというドイツ人もまたヒトラーの政権下を生き延びた人なのだと知らされる。
映画の登場人物は、歴史に名前を残す「立派な人」ではない。でも、そうであることが、立派なのだ。生きている、生きるために自分でできることをする、ということがかけがえのないことなのだ。
ひるがえって。
いま日本で、安倍独裁政権を「生き延びる」人が何人いるか。日本のために「生き延びる」人が何人いるか。日本のために、というのは、世界のために、でもある。どうやって安倍独裁政権を「生き延び」、未来を生きるのか、そのことを問われたような気持ちにもなった。
(2018年08月29日、KBCシネマ2)
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