監督ケヴィン・リマ 出演 エイミー・アダムス、パトリック・デンプシー
音楽、というか、「歌」のつかい方がとてもいい。
おとぎの国では、何もかもを歌で伝える。歌は、こころの喜び。恋や愛はもちろん歌で語り合う。確かめあう。こころから愛を歌えば必ず相手に通じ、愛は結ばれる。
そんなおとぎの国から、魔女によってニューヨークに追放された「お姫様候補」がどたばたを繰り広げるのだが、前半は、その純真なこころがニューヨークをかえていく(ニューヨークっ子をとりこにする)。--ここまでは、おとぎの国の延長である。歌もとても楽しい。ダンスも明るくて、ああ、純真っていいもんだなあ、とうれしくなる。
ところが、そんな「お姫様候補」がある日、歌を歌えなくなる。純真なこころを、そのまま歌えなくなる。待ち焦がれていた「王子様」がニューヨークまで彼女を救いに来たのに、喜びが歌にならない。自分自身のこころがわからなくなっているのである。
彼女のこころに混乱をひきおこしたのはニューヨークである。現実である。彼女はそこでひとりの弁護士に会うのだが、その親切さに接しているうちに、なにかが変わりはじめる。そして、弁護士の方も、彼女の純真さに触れているうちになにかが変わりはじめる。
そこに、もう一度「歌」が登場する。
舞踏会。「お姫様候補」と弁護士がダンスをする。歌手の歌う歌にあわせて。その歌は「お姫様候補」が自分で歌っているわけではない。弁護士が自分で歌っているわけではない。それなのに、その歌が、まるで自分たちのこころの声のように聞こえてしまう。こころが、他人の声に誘われて、だんだん自分を発見して行く。歌を歌ったことのない弁護士が、その声にあわせるようにして、声を出す。「お姫様候補」の耳元で、歌を歌う。
この瞬間、弁護士のこころが、はじめて明確になる。「お姫様候補」をこころからあいていることに弁護士自身が気づく。そして、「お姫様候補」もそのこころをしっかり感じてしまう。
「歌」の魅力は、たしかに、そこにある。
誰にでもこころはある。誰でも恋をする。愛をする。それをことばにする。しかし、それがすぐにできるのは「おとぎの国」の話である。現実生活のなかでは、こころは入り乱れ、どれが自分自身の声なのか、ほんとうの自分の声はどれなのか、そういうものがわからなくなるときがある。
そんなとき、こころを救い出してくれるのが「歌」である。
他人のことばであるけれど、他人のメロディーであるけれど、それが迷っているこころ、ことばを求めてさまよっているこころを救い出し、こんなふうに感じていいのだ、こんなふうに気持ちを伝えればいいのだ、と教えてくれる。
「歌」はこころに形を与えてくれるのである。
「歌」を、たとえば映画に、あるいは小説に、詩に、置き換えることができる。私たちは映画を見て、小説を読んで、詩を読む。それは、自分が感じていながら、まだことばにできないものを発見するためである。そこに存在するのは「他人」のことば、「他人」の表現であるけれど、その「表現」をとおして、こころの発見の仕方を私たちは学ぶのである。
このことは、映画のなかでもていねいに描かれている。弁護士は、歌なんて現実には何の役にも立たない。ダンスなんて意味がない、と思っている。「お姫様候補」がセントラルパークで歌いだすのを困惑して見つめている。「歌うのはやめろ」と言ったりする。ひ彼女の歌にあわせて、みんなが歌い踊るの引き込まれ、いっしょにリズムをとったりするが、すぐに何をしているんだろう、と我に返る。歌では現実をかえることはできない。純真さでは、人間関係は変えられない、という自分の考えにもどって行く。
しかし、「お姫様候補」の歌が、ことばが、アイデアが周囲の状況を変えて行くのを観るにつれ、少しずつかわってゆく。こころを伝える方法、いままで彼が知らなかった方法があるということに気がつきはじめる。
そして、最後の「歌」がある。
弁護士ではない誰かが、「お姫様候補」ではない誰かのために歌っている歌。その歌が自分のこころそのものであることを知る。恋の瞬間、弁護士は弁護しではなく、はじめての恋にとまどう少年になってしまう。ひとのことばに誘われるまま、そのことばが形作るこころのなかへ、全身で飛び込んで行く。「歌」を歌う。
一方、「お姫様候補」は「お姫様候補」で歌わないことを学ぶ。彼女がいままで知っていた「歌」(メロディー)では伝えられないものが彼女のこころのなかに生まれてきているのを知る。どうしていいか、わからない。得意だった「歌」が、いまは不完全に感じられてしまう。
そのとき、最後の「歌」が遠くからやってくる。
見知らぬ誰かが、誰かと誰かの恋を歌っている。そのことば、そのメロディー。それは彼女がいままで歌ったことのないことばであり、メロディーである。それは彼女のものではない。それにもかかわらず、それは彼女のものだ。彼女のこころそのものだ。
そして、そこへ弁護士の「歌」。耳元で、ささやくように。
その瞬間、「お姫様候補」は、こころとこころが出会っている、語り合っていることを実感する。彼女は何も言わない。何も言わないけれど、その無言から弁護士が彼女のこころを感じ取り、それにあわせるようにして歌をうたっていることを知る。
これは美しいシーンである。
ディズニーのファンタジーといえばそれまでなのかもしれないが、こころの苦悩、恋の苦しみの発見を、こんなふうにピュアな形で見るのはなかなか楽しい。
音楽、というか、「歌」のつかい方がとてもいい。
おとぎの国では、何もかもを歌で伝える。歌は、こころの喜び。恋や愛はもちろん歌で語り合う。確かめあう。こころから愛を歌えば必ず相手に通じ、愛は結ばれる。
そんなおとぎの国から、魔女によってニューヨークに追放された「お姫様候補」がどたばたを繰り広げるのだが、前半は、その純真なこころがニューヨークをかえていく(ニューヨークっ子をとりこにする)。--ここまでは、おとぎの国の延長である。歌もとても楽しい。ダンスも明るくて、ああ、純真っていいもんだなあ、とうれしくなる。
ところが、そんな「お姫様候補」がある日、歌を歌えなくなる。純真なこころを、そのまま歌えなくなる。待ち焦がれていた「王子様」がニューヨークまで彼女を救いに来たのに、喜びが歌にならない。自分自身のこころがわからなくなっているのである。
彼女のこころに混乱をひきおこしたのはニューヨークである。現実である。彼女はそこでひとりの弁護士に会うのだが、その親切さに接しているうちに、なにかが変わりはじめる。そして、弁護士の方も、彼女の純真さに触れているうちになにかが変わりはじめる。
そこに、もう一度「歌」が登場する。
舞踏会。「お姫様候補」と弁護士がダンスをする。歌手の歌う歌にあわせて。その歌は「お姫様候補」が自分で歌っているわけではない。弁護士が自分で歌っているわけではない。それなのに、その歌が、まるで自分たちのこころの声のように聞こえてしまう。こころが、他人の声に誘われて、だんだん自分を発見して行く。歌を歌ったことのない弁護士が、その声にあわせるようにして、声を出す。「お姫様候補」の耳元で、歌を歌う。
この瞬間、弁護士のこころが、はじめて明確になる。「お姫様候補」をこころからあいていることに弁護士自身が気づく。そして、「お姫様候補」もそのこころをしっかり感じてしまう。
「歌」の魅力は、たしかに、そこにある。
誰にでもこころはある。誰でも恋をする。愛をする。それをことばにする。しかし、それがすぐにできるのは「おとぎの国」の話である。現実生活のなかでは、こころは入り乱れ、どれが自分自身の声なのか、ほんとうの自分の声はどれなのか、そういうものがわからなくなるときがある。
そんなとき、こころを救い出してくれるのが「歌」である。
他人のことばであるけれど、他人のメロディーであるけれど、それが迷っているこころ、ことばを求めてさまよっているこころを救い出し、こんなふうに感じていいのだ、こんなふうに気持ちを伝えればいいのだ、と教えてくれる。
「歌」はこころに形を与えてくれるのである。
「歌」を、たとえば映画に、あるいは小説に、詩に、置き換えることができる。私たちは映画を見て、小説を読んで、詩を読む。それは、自分が感じていながら、まだことばにできないものを発見するためである。そこに存在するのは「他人」のことば、「他人」の表現であるけれど、その「表現」をとおして、こころの発見の仕方を私たちは学ぶのである。
このことは、映画のなかでもていねいに描かれている。弁護士は、歌なんて現実には何の役にも立たない。ダンスなんて意味がない、と思っている。「お姫様候補」がセントラルパークで歌いだすのを困惑して見つめている。「歌うのはやめろ」と言ったりする。ひ彼女の歌にあわせて、みんなが歌い踊るの引き込まれ、いっしょにリズムをとったりするが、すぐに何をしているんだろう、と我に返る。歌では現実をかえることはできない。純真さでは、人間関係は変えられない、という自分の考えにもどって行く。
しかし、「お姫様候補」の歌が、ことばが、アイデアが周囲の状況を変えて行くのを観るにつれ、少しずつかわってゆく。こころを伝える方法、いままで彼が知らなかった方法があるということに気がつきはじめる。
そして、最後の「歌」がある。
弁護士ではない誰かが、「お姫様候補」ではない誰かのために歌っている歌。その歌が自分のこころそのものであることを知る。恋の瞬間、弁護士は弁護しではなく、はじめての恋にとまどう少年になってしまう。ひとのことばに誘われるまま、そのことばが形作るこころのなかへ、全身で飛び込んで行く。「歌」を歌う。
一方、「お姫様候補」は「お姫様候補」で歌わないことを学ぶ。彼女がいままで知っていた「歌」(メロディー)では伝えられないものが彼女のこころのなかに生まれてきているのを知る。どうしていいか、わからない。得意だった「歌」が、いまは不完全に感じられてしまう。
そのとき、最後の「歌」が遠くからやってくる。
見知らぬ誰かが、誰かと誰かの恋を歌っている。そのことば、そのメロディー。それは彼女がいままで歌ったことのないことばであり、メロディーである。それは彼女のものではない。それにもかかわらず、それは彼女のものだ。彼女のこころそのものだ。
そして、そこへ弁護士の「歌」。耳元で、ささやくように。
その瞬間、「お姫様候補」は、こころとこころが出会っている、語り合っていることを実感する。彼女は何も言わない。何も言わないけれど、その無言から弁護士が彼女のこころを感じ取り、それにあわせるようにして歌をうたっていることを知る。
これは美しいシーンである。
ディズニーのファンタジーといえばそれまでなのかもしれないが、こころの苦悩、恋の苦しみの発見を、こんなふうにピュアな形で見るのはなかなか楽しい。