自由人
ぼくは呪う
ぼくは拒む
と書いて、そのあと「何を」呪うのか、「何を」拒むのかを書き続ける。
そして、それはだんだん長くなる。
それがおもしろくない。
書き出しの短いリズムのまま、ことばが展開するなら、「自由」が強烈に輝く。ことばが長くなると「叫び」ではなく言い訳になる。
「呪う」「拒む」という動詞が「言い訳」といっしょに動くのは、感情を論理が上回るからである。これは、おかしい。
論理を突き破って動く何かが「呪う」ということである。「拒む」ということである。「論理的」である限りは「自由」とは言えないのだ。「論理の自由」さえ、そこにはないのだ。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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