志賀直哉「豊年虫」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)
曲輪(くるわ)見物の部分に、次の描写がある。(正字体の漢字は、引用に当たって簡単なものに変えた。)
「やくざ」ということばの使い方に、なるほど、と感じた。「どっしり」の反対。軽薄。安っぽい。きざったらしい。けばけばしい。きどった。……あれこれ、考えてみるが、なかなか「現代語」にならない。いま、私がつかっていることばにならない。ことばにならないけれど、志賀直哉が感じたものが直感的につたわってくる。
こういう日本語に出会うと楽しくなる。
車屋を急がせて、そばを食べたあとの描写。
この「可笑しい」も、少し変わっている。おもしろい。こころを動かされる。すぐれている、かもしれない。そうなのだ。心根がすぐれている、という意味だろう。だから、それが「気持よい」。
どんな文学も、それぞれの「国語」で書かれているが、それは「国語」であって、「国語」ではない。たとえば志賀直哉の書いている文章は、「日本語」という「国語」であるまえに、「志賀直哉」という「外国語」なのだ。
そういうことばに出会ったとき、「日本語」は活性化する。動きだす。この瞬間が、私は好きだ。
それから、「豊年虫」が畳の上でもがいている描写がある。
「それをどうしても離れないので」というのは非常にまだるっこしい感じがする。簡潔な描写が得意な志賀の文章にはふさわしくないような感じが一瞬するのだが、この部分が、私はこの小説のなかでは一番好きである。
志賀は、ここでは蜉蝣を描写していない。客観的に見ていない。志賀直哉自身が、足の悪い蜉蝣になってもがいている。そのもがきながらの気持ち--どうしてもうまくいかない。その「どうしても」の気持ち。それが「苛立ち」にまっすぐにつながっていく。
「どうしても」というのは、こんなふうにして使うことばだったのだ。
曲輪(くるわ)見物の部分に、次の描写がある。(正字体の漢字は、引用に当たって簡単なものに変えた。)
新しい家(うち)は丈が高く間口が狭く、やくざに見え、古い家(いへ)は屋根が低く間口が広く、どつしりとしてゐた。
「やくざ」ということばの使い方に、なるほど、と感じた。「どっしり」の反対。軽薄。安っぽい。きざったらしい。けばけばしい。きどった。……あれこれ、考えてみるが、なかなか「現代語」にならない。いま、私がつかっていることばにならない。ことばにならないけれど、志賀直哉が感じたものが直感的につたわってくる。
こういう日本語に出会うと楽しくなる。
車屋を急がせて、そばを食べたあとの描写。
二度目の賃金を訊くと、御馳走になつたからと車夫は安い事をいつた。つまり貰ふべき賃金から蕎麦の代だけ引いていつてゐるのだ。その律儀さが可笑(をか)しくもあり気持よくもあつた。
この「可笑しい」も、少し変わっている。おもしろい。こころを動かされる。すぐれている、かもしれない。そうなのだ。心根がすぐれている、という意味だろう。だから、それが「気持よい」。
どんな文学も、それぞれの「国語」で書かれているが、それは「国語」であって、「国語」ではない。たとえば志賀直哉の書いている文章は、「日本語」という「国語」であるまえに、「志賀直哉」という「外国語」なのだ。
そういうことばに出会ったとき、「日本語」は活性化する。動きだす。この瞬間が、私は好きだ。
それから、「豊年虫」が畳の上でもがいている描写がある。
見ると羽は完全だが、足がどうかして立てない風だつた。立つたと思ふと直ぐ横倒しになるので、蜉蝣は狼狽(あわて)てまた飛び立たうとし、畳の上を滑走した。そしてそれをどうしても離れないので、こんなに苛立つてゐるのだと思はれた。
「それをどうしても離れないので」というのは非常にまだるっこしい感じがする。簡潔な描写が得意な志賀の文章にはふさわしくないような感じが一瞬するのだが、この部分が、私はこの小説のなかでは一番好きである。
志賀は、ここでは蜉蝣を描写していない。客観的に見ていない。志賀直哉自身が、足の悪い蜉蝣になってもがいている。そのもがきながらの気持ち--どうしてもうまくいかない。その「どうしても」の気持ち。それが「苛立ち」にまっすぐにつながっていく。
「どうしても」というのは、こんなふうにして使うことばだったのだ。
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