監督 サミュエル・ベンシェトリ 出演 イザベル・ユペール
フランス人(あるいはパリっ子)とはどんな人間なのか。フランスの個人主義がどういうものか。それがわかる。といっても、私の勝手な「誤読」だが。
いちばんわかりやすいのが、最初のエピソードの男。アパートのエレベーターがトラブルつづき。管理組合は修理しない。住民が金を出し合って新しいエレベーターに交換することになる。しかし、ひとりが金を出さないという。「2階に住んでおり、エレベーターなんかつかわない」。で、「では金を出さなくてもいい。ただしエレベーターはつかうな」。
この男。「会議」があった部屋で、スポーツジムにあるような自転車を見つける。エレベーターには金を出さずに、同じ自転車を買う。そして、自転車を「自動走行(?)」にして漕いでみる。自転車がかってに足を動かしてくれる。これじゃあ、運動にならないとも思うのだが、運動していないから途中で気を失う。自転車はまわりつづけ、足を痛める。車いす生活になる。さて、困った。2階まで、どうやって階段を上る?
ここからがフランス人。「助けて」とは言わない。ひとがいなくなる瞬間をみつけて、なんとか自分の部屋に帰る。このあとが、また大変。ドアの隙間からエレベーターの利用時間をチェックする。夜中から早朝まで誰も利用しない。あたりまえだ。そこで買い物に出かける。でも、店は閉まっている。どこか何か売っていないか。病院に自動販売機がある。そこなら食い物がある。で、真夜中に病院の自動販売機を目指して買い出し。この、ど根性がフランス人。自己主張を曲げない。わがまま。わがままの責任は自分でとる。
これは別な角度から言いなおすと、他人には干渉しない、ということ。車椅子なのでエレベーターをつかいたい? そんなこと知らない。エレベーターには乗らないから金を出さないといったのはお前。「助けよう」とは言わない。
こんなことで、社会が成り立つ? なぜか、成り立ってしまう。どうしてだろう。ひとを愛しているからだ。そして、この「愛」というのが「対等」の関係を守ることにつながっているからだ。
イザベル・ユペール(落ちぶれた女優)と鍵っ子高校生(母親はいるが出てこない)。年齢に差があるのに、年齢差を越えて「対等」に語り合う。プロの女優に対して、演技に注文をつける。イザベル・ユペールは最初は反発するが、指示に従い、台詞回しを変える。このシーンが「おっ、すごい」と目を見張る。下手くそな演技が、撮りなおすたびに変化し、最後は「迫真」。高校生の、観客としての視線がイザベル・ユペールを変えていく。ここには少年の映画への「愛」がある。映画への「愛」をとおして、イザベル・ユペールと少年が「支えあう」る。
「不干渉」(非干渉が正しい?)と「不干渉の干渉」が奇妙な形で表現されているのが、墜落した(?)宇宙飛行士を匿うアラブ系の女性と周囲の関係。空から落ちてきた宇宙飛行士を見ているひとがいるのに、だれも騒がない。
宇宙飛行士がNASAに電話して「助けてくれ」というと、NASAは「ちょっと待て。墜落したことがばれると予算が出なくなる」。あ、こんな「わがまま」な屁理屈をストーリーにしてしまうこと自体がフランスだけどね。アメリカじゃ、絶対に考えられない。コメディーだとしても。
で、宇宙飛行士を匿うことになった女性だが。息子がいる。息子は刑務所に入っている。寂しくて仕方がない。だから宇宙飛行士を息子がわりに匿う。得意料理をつくって愛情を注ぐ。「母」を演じながらいきいきとしてくる。これがおもしろい。NASAから口止めされているのだが、刑務所で面会した息子に「宇宙飛行士を匿っている」とついつい口走り(うれしくてたまらない、犯罪者になって、息子の「罪」を共有している)、「アルツハイマーになったのか」なんて言われてしまうんだけれどね。
それにしても。
なぜ、フランス人の「わがまま」を見ても「嫌い」にならないのだろうか。「わがまま」な人間はいやなものだが、フランス人の「わがまま」を見ていても「いや」という感じが起きない。「不器用」だからかもしれない。「不器用」が「個性」になって「規則」のようなものをほぐすからかもしれない。「合理性」からはみだしてししまうものが「肉体」を刺戟してくる。いとおしくなる。
こういう映画を見ると、フランス人がとても好きになる。
(2016年12月11日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
フランス人(あるいはパリっ子)とはどんな人間なのか。フランスの個人主義がどういうものか。それがわかる。といっても、私の勝手な「誤読」だが。
いちばんわかりやすいのが、最初のエピソードの男。アパートのエレベーターがトラブルつづき。管理組合は修理しない。住民が金を出し合って新しいエレベーターに交換することになる。しかし、ひとりが金を出さないという。「2階に住んでおり、エレベーターなんかつかわない」。で、「では金を出さなくてもいい。ただしエレベーターはつかうな」。
この男。「会議」があった部屋で、スポーツジムにあるような自転車を見つける。エレベーターには金を出さずに、同じ自転車を買う。そして、自転車を「自動走行(?)」にして漕いでみる。自転車がかってに足を動かしてくれる。これじゃあ、運動にならないとも思うのだが、運動していないから途中で気を失う。自転車はまわりつづけ、足を痛める。車いす生活になる。さて、困った。2階まで、どうやって階段を上る?
ここからがフランス人。「助けて」とは言わない。ひとがいなくなる瞬間をみつけて、なんとか自分の部屋に帰る。このあとが、また大変。ドアの隙間からエレベーターの利用時間をチェックする。夜中から早朝まで誰も利用しない。あたりまえだ。そこで買い物に出かける。でも、店は閉まっている。どこか何か売っていないか。病院に自動販売機がある。そこなら食い物がある。で、真夜中に病院の自動販売機を目指して買い出し。この、ど根性がフランス人。自己主張を曲げない。わがまま。わがままの責任は自分でとる。
これは別な角度から言いなおすと、他人には干渉しない、ということ。車椅子なのでエレベーターをつかいたい? そんなこと知らない。エレベーターには乗らないから金を出さないといったのはお前。「助けよう」とは言わない。
こんなことで、社会が成り立つ? なぜか、成り立ってしまう。どうしてだろう。ひとを愛しているからだ。そして、この「愛」というのが「対等」の関係を守ることにつながっているからだ。
イザベル・ユペール(落ちぶれた女優)と鍵っ子高校生(母親はいるが出てこない)。年齢に差があるのに、年齢差を越えて「対等」に語り合う。プロの女優に対して、演技に注文をつける。イザベル・ユペールは最初は反発するが、指示に従い、台詞回しを変える。このシーンが「おっ、すごい」と目を見張る。下手くそな演技が、撮りなおすたびに変化し、最後は「迫真」。高校生の、観客としての視線がイザベル・ユペールを変えていく。ここには少年の映画への「愛」がある。映画への「愛」をとおして、イザベル・ユペールと少年が「支えあう」る。
「不干渉」(非干渉が正しい?)と「不干渉の干渉」が奇妙な形で表現されているのが、墜落した(?)宇宙飛行士を匿うアラブ系の女性と周囲の関係。空から落ちてきた宇宙飛行士を見ているひとがいるのに、だれも騒がない。
宇宙飛行士がNASAに電話して「助けてくれ」というと、NASAは「ちょっと待て。墜落したことがばれると予算が出なくなる」。あ、こんな「わがまま」な屁理屈をストーリーにしてしまうこと自体がフランスだけどね。アメリカじゃ、絶対に考えられない。コメディーだとしても。
で、宇宙飛行士を匿うことになった女性だが。息子がいる。息子は刑務所に入っている。寂しくて仕方がない。だから宇宙飛行士を息子がわりに匿う。得意料理をつくって愛情を注ぐ。「母」を演じながらいきいきとしてくる。これがおもしろい。NASAから口止めされているのだが、刑務所で面会した息子に「宇宙飛行士を匿っている」とついつい口走り(うれしくてたまらない、犯罪者になって、息子の「罪」を共有している)、「アルツハイマーになったのか」なんて言われてしまうんだけれどね。
それにしても。
なぜ、フランス人の「わがまま」を見ても「嫌い」にならないのだろうか。「わがまま」な人間はいやなものだが、フランス人の「わがまま」を見ていても「いや」という感じが起きない。「不器用」だからかもしれない。「不器用」が「個性」になって「規則」のようなものをほぐすからかもしれない。「合理性」からはみだしてししまうものが「肉体」を刺戟してくる。いとおしくなる。
こういう映画を見ると、フランス人がとても好きになる。
(2016年12月11日、KBCシネマ2)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
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