高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)
「5」。この作品は不思議だ。
「ぼく(あるいは、あたし)」は奇形である。社会から疎外されてしまう存在である。
この「子供」は両親を恥じ入らせる。両親は、その子供を籠に入れて海へ流す。その籠にはいっさいの「孔」がない。真っ暗ななかに押し込めて両親は子供を暗い海へ流す。そして、その籠は流れ着いたあらゆる浦、村に拒まれる。
拒まれつづけたあとの「子供」はどうなったか。それを描写した部分に不思議さが凝縮している。
「闇」が太陽にかわる。
「子供」自身がそう語るのではなく、「子供」を知っているひとびとが「子供」を「太陽」だと語り始める。「ささやかれる」という表現が、そのことを告げている。
ここに「神話」がある。
「闇」の部分を「子供」はすべて引き受けた。すべて引き受けることで、「闇」であることによって、ひとびとの側に「光(太陽)」を届けた。「子供」が「闇」を引き受けなければ、「闇」は両親とともに、あるいは「浦(村)」のいたるところに「闇」をもたらしただろう。「闇」を遠ざけるということは「太陽(光)」をもたらすことと同義である。
この急激な転換、精神が酩酊したような錯乱のなかに「詩」がある。
「5」。この作品は不思議だ。
ぼくは いや あたしだろうか
生まれつき 目なく 耳なく 鼻 口もなく (16ページ)
「ぼく(あるいは、あたし)」は奇形である。社会から疎外されてしまう存在である。
この「子供」は両親を恥じ入らせる。両親は、その子供を籠に入れて海へ流す。その籠にはいっさいの「孔」がない。真っ暗ななかに押し込めて両親は子供を暗い海へ流す。そして、その籠は流れ着いたあらゆる浦、村に拒まれる。
拒まれつづけたあとの「子供」はどうなったか。それを描写した部分に不思議さが凝縮している。
もはや ぼくでも あたしでもなく
ぶざまな肉のかたまりでもなく
ただ ただようものは ただよいの果て
夕べの波の上の陽(ひ)のかけら 陽の子に
太陽じしんになった などとささやかれる
「闇」が太陽にかわる。
「子供」自身がそう語るのではなく、「子供」を知っているひとびとが「子供」を「太陽」だと語り始める。「ささやかれる」という表現が、そのことを告げている。
ここに「神話」がある。
「闇」の部分を「子供」はすべて引き受けた。すべて引き受けることで、「闇」であることによって、ひとびとの側に「光(太陽)」を届けた。「子供」が「闇」を引き受けなければ、「闇」は両親とともに、あるいは「浦(村)」のいたるところに「闇」をもたらしただろう。「闇」を遠ざけるということは「太陽(光)」をもたらすことと同義である。
この急激な転換、精神が酩酊したような錯乱のなかに「詩」がある。