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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(68)

2005-11-20 22:59:32 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「5」。この作品は不思議だ。

ぼくは いや あたしだろうか
生まれつき 目なく 耳なく 鼻 口もなく (16ページ) 

 「ぼく(あるいは、あたし)」は奇形である。社会から疎外されてしまう存在である。
 この「子供」は両親を恥じ入らせる。両親は、その子供を籠に入れて海へ流す。その籠にはいっさいの「孔」がない。真っ暗ななかに押し込めて両親は子供を暗い海へ流す。そして、その籠は流れ着いたあらゆる浦、村に拒まれる。
 拒まれつづけたあとの「子供」はどうなったか。それを描写した部分に不思議さが凝縮している。

もはや ぼくでも あたしでもなく
ぶざまな肉のかたまりでもなく
ただ ただようものは ただよいの果て
夕べの波の上の陽(ひ)のかけら 陽の子に
太陽じしんになった などとささやかれる

 「闇」が太陽にかわる。
 「子供」自身がそう語るのではなく、「子供」を知っているひとびとが「子供」を「太陽」だと語り始める。「ささやかれる」という表現が、そのことを告げている。

 ここに「神話」がある。
 「闇」の部分を「子供」はすべて引き受けた。すべて引き受けることで、「闇」であることによって、ひとびとの側に「光(太陽)」を届けた。「子供」が「闇」を引き受けなければ、「闇」は両親とともに、あるいは「浦(村)」のいたるところに「闇」をもたらしただろう。「闇」を遠ざけるということは「太陽(光)」をもたらすことと同義である。

 この急激な転換、精神が酩酊したような錯乱のなかに「詩」がある。
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