野沢啓「立原道造の詩のかたち--言語隠喩論のフィールドワーク」(「走都」27、2021年11月30日)
野沢啓「立原道造の詩のかたち--言語隠喩論のフィールドワーク」は『言語隠喩論』のつづき。感想を書く前に、少し私自身の基本的な考え方を書いておく。野沢が書いている「身分け=言分け」と関係している。
私は「一元論」を目指している。かなり極端な「一元論」である。簡単に言えば、この世界に存在するのは「私の肉体」だけ。ほかは何も存在しない。他の存在は「私の肉体」が必要に迫られて生み出したもの、ということである。いわゆるこころとか、精神とか、魂というものは存在しない。肉体が生み出すことができるものに「ことば」がある。声がある。「ことば」はこころや精神に似ていて、つかみどころがないようにも感じるが、「文字」によっても確認することができる。その「ことば」と「世界」との関係は、「ことば」がとどくところ(ことばとして、声にだし、書くことができる、読み返すことができるところ)までが「世界」である。「私の肉体」は「ことば」によって「肉体」の領域からはみ出し、その周辺に、いわゆる「他者」を生み出し、その「他者」と「私の肉界」の交流のなかで世界は複雑化していくが、同時に単純化もされる。いつもすべての「他者」を存在させて「関係」を維持しているわけではない。必要に応じて「他者」を呼び出し、そこで「世界」を確認していることになる。そうであるはずなのに、「世界」は存在しているようにも見える。なぜなんだろう。私は「ことばの肉体」という言い方で、それと向き合っている。「私の肉体」があるように、生み出された「ことば」はさまざまな「ことば」と関係しながら「ことばの肉体」として存在をたしかなものにしていく。「ことばの肉体」を確立していく。
それは、ときには「私の考え」を裏切る。つまり「私の考え=私の肉体」を否定しようとする。そういうとき、それははっきりした「他者」という形をとる。どう向き合っていいか、わからない存在として目の前にあらわれてくる。「私の肉体/私のことばの肉体」が何らかの形で変化しないと、世界というものが一瞬にして消えてしまう。再び、最初からやりなおさないといけない。つまり、「私自身(私の肉体)」をつくりかえないといけないことになる。そうしないと「一元論」ではなくなる。究極の「多元論」になってしまう。もちろん「多元論」になってしまっていもいいのだけれど、私は我が儘な性格だから、「多元論」ではなく「多様論(?)」として共存したいのである。「多様な私の肉体」という形にならないかなあ、と思ったりする。
何のことか、わからない、と言われそうだが、それはそうなのである。私は「結論」をもっていいないし、結論を壊しながら考えるというのが私のやっていることである。つまり「ことば」を書いているときだけ、そのことばのとどく範囲で私が存在していると考えているのである。そして、いま書いたようなことを、さまざまな「ことば」を読むたびに繰り返しているというのが私の生き方なのだ。
で。
「立原道造の詩のかたち--言語隠喩論のフィールドワーク」。野沢は、「のちのおもひに」を取り上げて「完成度の高い作品」と評価し、「日本の抒情詩の最高傑作」(郷原宏)と呼ばれる理由を考えている。そして、こう書いている。
〈だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……〉のフレーズこそ、立原がこの詩を駆動させる決定的な原点であったのではないか。すくなくともわたしの言語隠喩論の立場からはそう見えるのである。(略)〈だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけ〉るしかないことを立原は最初からわかっていたはずである。ひとは他人の細かい来歴やその見たもの聞いたことなどには関心をもたないものである。そういうありきたりな現実を若き立原がどこまで理解していたかはともかく、その鋭い直感が他者という存在との懸隔感をとらえないはずはない。しかし、にもかかわらず、立原はその懸隔感を書かずにはいられなかった。
私がつまずくのは、立原の「だれもきいてゐないと知りながら語りつづけた」の「きいてゐない」を「関心をもたない」と野沢が言いなおしていることである。私はこの「きいてゐない」を「関心をもたない」とは受け止めなかった。「わからない」と受け止めた。
「関心をもたない」か「わからない」か。
この違いの中に、私と野沢の「身分け=言分け」という表現に対する違いがある。
「だれも聞いていない」をいう表現を、どういうときにつかうか。たとえば、会社か何かのあつまりで上司が「開会の挨拶」をしている。「だれも聞いていない」。これは、野沢の言うように「関心を持たない」である。私の場合は。
でも、ほかにも「だれも聞いてない」のつかい方がある。野沢は『言語暗喩論』でとても大切な問題提起をしている。しかし、だれもとまではいわないが、多くの人は「聞いていない」。これは「関心をもたない」ということもできるが、野沢から見れば、「だれもわかっていない」の方が近くないか。
「だれにもわからない」。けれど、書かずにはいられない。
これが、この一行を書いたときの、立原の実感ではないのか。主観ではないのか。
「関心を持たない」では、なんというか、客観的すぎる。
「主観」「客観」と「一元論」を考えるとき、「一元論」は「主観」である。「私の肉体」しか存在しない。「主観」しか存在しない。私は「客観」というものを、疑っているのである。
ことばを読むときは、そのことばの「主観」を読むのであって、「客観」など読みはしない。「主観」に「主観」を重ねて、「主観」そのものになる。
ちょっと脱線した。脱線でもないかもしれないが。いや、ほんとうにいいたいのは、このことなのだ。野沢のことばは「客観」的でありすぎる。
別な例で考えてみる。言いなおしてみる。親が子どもに「ちゃんと聞いて」と叱る。これは「関心を持って」ではなく「わかって」であろう。そしてその「わかって」は「わかったことを実行しなさい」である。つまり「肉体」を「わかったように」動かしなさい、である。
「聞く」という「動詞」は、その先に別の「動詞」を必要とする。「肉体」を必要とする。
もちろん「関心を持つ」も「持つ」という「動詞」を呼び寄せるのだが、あいだに「関心」という別なことばがはさまってくる。「直接性」がそこなわれる。「間接性」によって「客観性」を確立するとも言えるが、これは、綿の感じ方ではまだるっこしい。
親の「ちゃんと聞きなさい」は「関心を持って」ではない。「わかって」をさらに通り越して、「こうしなさい/こうしろ」という命令にもなる。親が子どもの肉体を強制的に動かそうとしている。親の「聞きなさい」は、親の肉体を通り越して子どもの肉体に働きかける。
立原の「きいてゐない」は、どちらなのか。こういうことは「好み(主観)」の問題だから、どうでもいいといえるが、逆に「主観」の問題だから大切だとも言える。
繰り返しになるが。
いま書いたことに関連して言えば、私が野沢の書いていることについて不満を持つのは、野沢の書いていることが「客観的」すぎるからである。この「客観」は、もちろんイヤミである。「客観」を野沢は何によって「客観」にするかと言えば、西洋の哲学である。野沢が引用している西洋の思想家は日本の現代詩について語っているわけではない。そういうことばを日本の現代詩の問題を解説する「証拠」としてつかっても「証拠」にはならない。ときには日本の文献もつかっているが(この評論では日本の文献をつかっているが)、西洋哲学の方が多い。そして、それぞれの思想家の主張は、それぞれの個人と向き合うだけでも膨大な時間が必要である。「主観(もちろん私の主観にすぎない)」が入り込みにくいテキストを引用している。引用されている西洋哲学を「主観(自分自身の実感)」として把握し、そこから(つまり引用されている外国人哲学者の瞬間から)野沢の書いていることを点検することは、よほどその哲学者を研究した人しかできないだろうと思う。
これは、つまり、なんというか。
引用されているテキストが「絶対」であるという前提に立って、野沢のことばを補強するという「関係」がそこには存在している。こういう「補強」を、私は、うさん臭いと思う。外国の哲学者がこういっている。だから野沢の書いていることは間違いがない。
政治家が新しい事態を説明するのに、やたらとカタカナ語をつかうのに似ている。このことばを知らないヤツは何も知らない。何も知らないヤツは、黙って従え。
それはそれでいいときがあるかもしれないけれど、文学に関しては、私はいつでも「正解」を求めているわけではない。だいたい「文学」というのは、まったくの個人のもの。自分だけのものである。それに「一元論」なのだから「正解/誤解」というものはない。そのとき、ある世界がそういう姿として私には見える、というだけなのであるから。
言いなおすと、野沢が「客観」を目指せば目指すほど、私には野沢の「主観」が見えなくなる。いったい私は野沢の文章を読んでいるのか、それとも外国のだれかが言ったことばを読んでいるか。だれと向き合って対話すればいいのかわからなくなる。
もう一か所引用する。
軽井沢追分と思われる風土とそこに存在した自身の姿がおのずから投影されたひとつの世界があらわれたのだが、それこそ立原自身の言語的営為がもたらした世界で唯一無二の隠喩的世界なのである。言うまでもなく、この独自の世界は立原の言語がみずからの意志で構築したものである。
「言語がみずからの意志で構築したもの」を、私は「ことばの肉体」と呼んでいる。そこに「立原の(個人の名前)」をつけくわえると「ことばの肉体」と「肉体のことば」が交錯する。結びつき、分離できない形でうごめく。ここにも「身分け=言分け」という考えが関係してくる。ただし、私の言う「身分け=言分け」と野沢の言う「身分け=言分け」はまったく「出自」が違う。私は野沢が参照した本を一冊も読んでいない。
「きいてゐない(聞いていない)」にもどって言うと、私は立原の書いている「きいてゐない」(聞かない)を、野沢が書いているように「関心を持たない」だけではなく、駄々っ子相手の親の「聞いていない(親)/わからない(子)」に広げ、さらに「しなさい」という命令にも広げる。そこから逆に、子どもの「聞いて/わかって(ほしい)」という欲望も聞く。そういういろいろなことが重なり合って「聞く」ということばの「意味」は複雑になっていく。これは「私の肉体」のなかにだけではなく、「ことば」そのもののなかにも蓄積してくる。そして、その蓄積が、いくつもの場面で、いくつもの形で、そのつどあらわれてくる。その「蓄積」を、たとえば私は「文学」のなかに見る。それは「私の肉体」を超越している。
この問題を追いかけていくと「一元論」は破綻するように見える。しかし、「論理」というのはどんなときでもそうだが、結論のためなら何でも捏造してしまうから、「この問題を別の角度から点検すると」というような便利な方便でやってのけることも可能とは言える。だからこそ、私は「結論」とか「論理」というものを信じていないというか、常に自分の考えたことを否定するためにだけ考えようとするのだが……。
また脱線。
たとえば、この「ことばの肉体」の愛好者として、私は高貝弘也や那珂太郎を思い浮かべるが、西脇順三郎もそこに連ねようと思えば連ねることもできるし、それこそ立原道造もつなげることができる。「文学」に関係している人なら(関係していなくても)、すべてのことばが「文学の肉体/ことばの肉体」と関係している。立原が採用している「ソネット」という形式は「ことばの肉体」のひとつである。それは立原が独自につくりだしたものではなく「ことばの肉体」がつくりあげたものとして、立原がことばを動かすときにすでに存在していた。
一方、「肉体のことば」というものもあって、これは駄々っ子の「買って、買って」というときの「肉体」そのものの動きのなかにもある。「ダメ」というのは「わかっていて」、それでも「買って」というとき、ことばだけではたたないものを「肉体」そのものとして動かすのである。そしてこのときいちばんややこしいのは、子どものなかには親の「ことば」が「わからない」のではなく、「わかっている」子どももいるということである。「聞かない」のではなく「聞いてしまっている」。心底わかっている。わかっているからこそ、わかりたくない。「ことばの肉体」を超えたいと思う子どももいる。「ことばの肉体」を超える「ことばの肉体」が必要だが、それを子どもは持たない。だから「肉体のことば」に頼るしかない。「ことばの肉体」と「肉体のことば」は、すれ違っているか、入れ代わっているか、ときにはわからない。
私は、こういうことは、わからないままにしておく。「わからないままにしておく」ということが「わかる」ということでもあるからだ。なるようにしかならないのである。
いまこの文章も、それに似ているかもしれない。
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