詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)

2020-11-12 21:22:07 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)(2020年11月12日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 孔雀

 フェリーニの映画のなかでは、私はこの映画がいちばん好き。理由は簡単。役者がみんなのびのびしている。「特別なひと」を演じているという感じがない。もちろん小さな街の庶民を描いているのだから、そこに「特別なひと(たとえばギリシャ悲劇の主人公)」がいるわけではない。そこで起きる事件も特別変わったものではない。起きたことを覚えておかないと、あとで困るということでもない。体験したことは、たしかに人間に影響するだろうけれど、あの事件が人生を決定したというようなことは起きない。母親が死ぬことだって、だれにでも起きること、だれもが経験しなければならないことのひとつにすぎない。
 これを、どう演じるか。
 みんなのびのびと、好き勝手に演じている。「どうせ映画」と思っている。遊びながら演じている。この「遊びながら」という感じがスクリーンにあふれる映画は、意外と少ない。役者本人の部分を半分残し、残りの半分でストーリー展開のための演技をする。そうすると、スクリーンに映し出されているのは役者か役か、わかったようでわからない。別ないい方をすると、「私はこんなふうに演じます」という「リハーサルの過程」という感じがどこかに残っている。そこに、不思議な「味わい」がある。
 こういうことを感じるのは、まずルノワール。それからタビアーニ兄弟。そして、フェリーニの、この「アマルコルド」。監督なのだけれど、映画を支配するわけではない。役者を支配するわけではない。役者が動く「場」を提供し、そこで遊んでもらう。そして、その遊びを、「ほら、こんなに楽しい」と観客に見せる。
 これって、映画のタイトルではないが、「私はこんなことを覚えている(実はこんなことがあった)」と、話のついでに語るようなもの。「あ、それなら私も覚えている」と話がもりあがったりする。そのときだれかが「ほら、こんなふうに」とある人の物真似をして見せるようなもの。「精神」とか「意味」とか「感動」ではなくて、そういうものになる前の「肉体」そのものを共有する感覚といえばいいのかなあ。
 で、ね。
 そこに突然、孔雀が舞い降りて羽を広げて見せる。それも雪の降る日にだよ。雪が降っているのに、孔雀がどこかから広場に飛んでくる。伯爵の飼っている孔雀だ、というようなことをだれかが言うけれど、まあ、これは映画を見ているひとへの「後出しじゃんけん」のような説明。そんなことはどうでもいい。
 何これ。なんで、孔雀が雪の降る日に飛んできて、しかも羽を広げて見せる必要があるんだよ。
 必要なんて、ないね。必然なんて、ないね。意味なんて、ないね。
 映画を見ていないひとに、そこに孔雀が飛んできて羽を広げるんだよ、それが美しいだよ、言ったってわからない。「嘘だろう、そんなつごうよく孔雀なんか飛んでくるわけがない」と、フェリーニから思い出話を聞かされたひとは言うかもしれない。
 そう、そこには必然はない。そして、必然がないからこそ、それはフェリーニにとって必然なのだ。「遊び」という必然。ひとは「遊び」がないと生きていけない。「遊ぶ」ためるこそ生きているといえるかもしれない。不必要なことをして、必要の拘束を叩き壊してしまう。
 たぶん、これだな。
 フェリーニの映画にはカーニバルやサーカスがつきものだ。祝祭がつきものだ。それは世界の必然を叩き壊して、瞬間的に解放の場を生み出す。「解放区」だ。自分が自分でなくなる。だれかがだれかでなくなる。自分を超えて、だれにだって、なれる。その「瞬間的な生のよろこび」。そういうものがないと人間は生きていけない。祝祭のあとに、しんみりしたさびしさがやってくるが、それはそれでいい。「祝祭」の体験が、「肉体」のなかにしっかりと生きている。覚えている。思い出すことができる。それは、いつの日か、それ(解放区)を自分の肉体で「再現」できるという可能性を知るということでもある。
 あ、めんどうくさくなりそうなので、もうやめておこう。
 雪のなかで羽を広げる孔雀。ああ、もう一度、みたい。いや、何度でも見たい。
 みなさん、主役は孔雀ですよ。ちょっとしか登場しないから、見逃しちゃダメですよ。






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高橋睦郎『深きより』(2)

2020-11-12 10:10:07 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(2)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二 すなはち鏡」は「額田王」。

熾りに熾る火のうへ 青銅を蕩かし 煮たぎらせる
煮立つた金属を 鋳型に注ぎ 水を浴びせて 冷やし固める

動詞がはげしく動く。休むところがない。セックスでいうとエクスタシーへ向かって加速していく感じだ。特に「蕩かす」という動詞が魅力的だ。「溶かす/解かす」ではない。客観を超えている。「蕩ける」には外側から「とける」ではなく、内部から「とける」という感じがある。私の感じでは「蕩けさせる」だが、「蕩かす」にはなにか自発的なイメージがあり、いっそう不思議な気持ちになる。だから、それにつづく「煮たぎらせる」も単に「煮る」以上のことがらである。「内部」が「たぎる」のである。自発的、な感じがする。「蕩ける」はおだやかな印象があるが、「たぎる」は激しい。内部にあるものが、外に出ようとしている。エクスターを求めてあえいでいる。
 それをふたたび固形にもどすとき、それは単なる形ではないだろう。
 ものを「形」にするとき、それがたとえ金属であったも叩いてのばしたり削ったりという外からの力でおこなうものがある。しかし、鋳造は、そうではない。外から矯正するのではなく、内部を自由に解放したあとで、その内部そのものに形を与えるのだ。その過程が「蕩かす」「たぎる」ということばで強調されている。

それら 木と火と土と金と水と 宇宙五大の愛し児が
すなはち 鏡 すなはち あきらけしわたくしこの身

 鏡は「内部」から噴出してきた「わたし」、隠されていたものが、いまあらわになったのだ。そして、それは「宇宙」と交歓する。宇宙になるとさえ言える。
 「すなはち」は「即」である。それは切り離せない。「鏡」と「わたし」は客観的にみれば別個の存在だが、それは「ひとつ」。というより「すなはち」という「ことば」が「鏡」と「わたし」を「ひとつ」にする。外部即内部。内部即外部。「すなはち」によって新しい力が生まれる。





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「独立案」?

2020-11-12 09:18:05 | 自民党憲法改正草案を読む
「独立案」?

 2020年11月12日の読売新聞(西部版・14版)の4面に「学術会議」問題の記事がのっている。

学術会議/「国から独立」案 検討/自民PT 「非公務員化」焦点

 この見出しだけ読むと、学術会議が国から独立しようと検討していると勘違いしそうである。実際は、自民党が学術会議を「独立させよう」と検討している。「独立させる」が「独立」と省略されている。
 これは新聞の見出しの原則に反する。
 たとえば田中角栄が「逮捕された」ときは「田中角栄逮捕」という見出しになるが、必ず「警視庁 収賄容疑で」というような補足の見出しがつく。文章にすると「警視庁は、田中角栄を収賄容疑で逮捕した」である。角栄は「逮捕された」が、それは警察が角栄を「逮捕した」と「主語」「述語」「補語」を明確にしている。
 
学術会議/「国から独立」案 検討/自民PT 「非公務員化」焦点

 という見出しは、読売新聞に言わせれば、自民PTが、学術会議を「独立させる案」を検討しているという意味だということになるのだろうが、どうしたって、学術会議が「国から独立する案」を検討していると誤解してしまう。
 言い直すと、そういう誤読を誘うような見出しになっている。
 なぜ、そんな見出しにしたのか。
 ここには、ごまかしというか、嘘があるのだ。
 記事にはどう書いてあるか。

 日本学術会議のあり方を検討する自民党のプロジェクトチーム(PT)は11日の会合で、来週から論点整理に入り、年内に政府への提言をまとめる方針を決めた。政府の特別機関との位置づけを変え、国から独立させる案を含め検討する。特別職の国家公務員である会員の身分の見直しを求める意見も強まっている。
 PTはこの日、経団連や日本工学アカデミーなどから非公開で意見聴取した。関係者によると、経団連は2015年にまとめた学術会議の見直しに関する提言を基に、国から独立した法人とする案などを訴えた。

 「国から独立させる案」は「国から独立した法人とする案」と言い直されている。どこにも「恣意的」なものはないように見える。
 しかし。
 「独立する」ということばは、はたしてこんなふうにしてつかうことがあるのか。「独立する」というのはあくまで「主体的」な行為であり、「〇〇が独立する」といういい方が基本である。「〇〇を独立させる」では〇〇以外のものが関与する。それは「独立する」とはいわない。関与したものが「〇〇の独立」を装って、〇〇を支配することがあるからだ。真の「独立する」は文字通り「独り立ち」することである。
 ふつう、こういうとき、日本ではどういうことばをつかうか。
 会社ならば、「〇〇部」を「独立させる」とはいわない。〇〇部を切り離し「子会社化」する、という。言い直すと「分離する」である。そして、このときの「分離」は表面的には分離しているが、影で「支配」されていることが多い。子会社は親会社の意向にしたがって活動する。親会社の意向から「独立している」わけではない。
 もし、だれかが会社を辞めて新しい会社をつくるならば、それは「独立する」だが、そのときは〇〇さんが「独立した」であって、会社が〇〇さんを「独立させた」ではない。
 こう考えると、読売新聞の書いている「独立(する/させる)」は、日本語の用法として間違っている。あるいは、不適切(不十分)であるといわなければならない。
 なぜ、こういう表現になったのか。読売新聞が独自に考え出したのではなく、自民党のいうままに書いているのだが、この他人のことばをうのみにして書くというところに問題がある。
 自民党がやろうとしているは、学術会議の「分離」である。
 しかし、いまだって学術会議は「政府の特別機関」であり、政府そのものとは「分離」状態にある。「完全支配」されているわけではない。だから、自民党がやろうとしているのは「分離」以上のことである。
 それは、なにか。
 「排除」である。会社で言えば「クビ」。会社の例で言えば、〇〇さんは「独立した」のではない、会社が「クビにした」のだ。しかたなく〇〇さんは自分で起業したのだ、ということになる。
 「排除する」というと問題が大きくなるから、それをあたかも「独立した」(本人が臨んでいるようにした)と言い直す。
 なぜ、学術会議を「排除」しようとするのか。
 記事の最後に、こう書いてある。

自民党の甘利明・税制調査会長は自身のホームページで、学術会議に所属していた研究者の姿勢に関し「日本の安全保障研究には否定的な一方で、軍事研究につなげることを宣言している中国の大学との研究には能動的だ」と疑問を示している。

 甘利はあいまいな部分がある。学術会議(のメンバー)が中国の大学のどの部門との研究に能動的なのか、それが明確ではない。中国の安全保障に関しない研究に能動的なのかもしれない。だから、その部分は除外して考える必要がある。甘利が指摘しているのは「日本の安全保障研究には否定的」ということだろう。それを印象づけるために「軍事研究につなげることを宣言している中国の大学との研究には能動的だ」と読むべきだろう。 で、ここから明らかになるのは、簡単に言い直せば、「日本学術会議は、日本の安全保障研究には否定的」だから排除してしまえ。予算など出すな、である。「日本の安全保障研究」とは、もちろん「軍事(軍備/武器)研究」である。
 「安全保障」にはいろいろな面があるが、問題にしているのは「軍事研究」である。
 なぜ「軍事」だけ狙い撃ちにするのか。
 たぶん。
 「軍事研究」というのは、あるいは「武器」というのは、つかおうがつかわまいが、「消耗品」である。古くなれば、用をなさないことがある。軍事産業は必ずもうかるのである。軍事産業が自民党の「財政(献金)」にとってかかせないということなのだろう。自分たちの金儲けのために、学術会議に軍事研究をさせようとしている。それに反対するのなら、そんなものは「排除」してしまえ。でも、「排除」というと問題になるから「独立させる」とごまかすのである。
 そして、この「排除」ということばをもとに考えれば、「6人任命拒否」が「6人排除」であったことがよくわかる。
 任命されなくても「学問の自由」が侵害されたことにならない、というのはもっともらしい言い方だが、「排除された」ならば、それは「被害」なのである。任命されない学者はたくさんいる。候補リストにあがった105人以外は任命されない。しかし、その人たちは「排除された」のではない。単に任命されなかっただけ。6人は「任命されない」ことによって「排除された」。
 ことばが違えば、事実も違うのだ。
 ことばは「認識」そのものをあらわす。つまり「思想」をあらわす。「独立する」と「独立させる」は「事実」が違う。「独立する」と「分離する」も違うし、「独立する」と「排除する」も違う。
 新しいことばが出てきたときは、必ずことばを支える「思想(ことばを生み出す現場)」にまでさかのぼって点検しないといけない。
 自民党が「独立させる」案を検討していると主張しているなら、「独立させる、というのは分離するという意味ですか? 排除するという意味ですか?」と確認しないといけない。「学術会議から独立したい、独立させてほしいと言ってきているのですか?」と問い直さないといけない。
 そういうことをしないならば、それは単に自民党の宣伝にすぎない。

 



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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