フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」(★★★+★)(2020年11月10日、KBCシネマ1)
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 ジュリエッタ・マシーナ
フェデリコ・フェリーニ初のカラー作品。黒沢明の「どですかでん」を見たときのように、何か、不安な気持ちで見てしまう。
あとは、イタリアは中国と同じで「歴史」があるから、なんでも巨大になってしまうという感じ。ケタが外れている。しかし、ケタが外れながら、妙に「完結性」がある。けばけばしい化粧や衣裳、明確な色彩の氾濫。それは、なぜか「競合」して互いを打ち消してしまうということがない。不思議なバランスがある。
「どですかでん」を見たときは、モノクロの方がいいのに、と思いながら見た。フェリーニの場合は、そこまでは感じないが、「色が硬い」という感じがする。人工的、といえばいいのか。でも、人工的だからこそ、そこに不思議な調和もある。繰り返しになるが、不思議なバランスがある。
なぜなんだろうなあ。
別の角度から、見てみる。
この映画の特徴は、最初にあらわれている。
ジュリエッタ・マシーナの「顔」がなかなかスクリーンに映らない。カツラをとっかえ、ひっかえする。衣裳も変える。それを後ろ姿で見せる。やっと正面を向いたと思っても、影で見えない。この逆光のために顔が見えないというシーンは何回か出てくる。
映画で、役者の顔を見せないで、いったい何を見せるのか。
その疑問の中に、この映画の答えがある。フェリーニが描くのは、まず、ジュリエッタ・マシーナが「見る」世界なのである。どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、はっきりしない。目をつむって見るのが幻想とは言い切れない。目に見える幻想を消すために目をつむるということさえするのだから。
幻想は目で見るのではなく、「魂」で見る、とフェデリコ・フェリーニは言うかもしれない。私は「魂」というものがよくわからないので、ここは保留にしておく。ただし、目以外のもので見ている、ということだけは確かだと思う。そして、この「目以外で見る」ということが明確に意識されているために、全体のバランスが崩れないのかもしれないと思った。意識の明確さが「人工的」という印象を誘うのかもしれない。
この「目以外で見る」ということを、映画という「目に見えるもの」にするというのは、なかなか複雑であり、刺激的だ。象徴的なのが、夫の浮気を撮影したフィルム。ジュリエッタ・マシーナは、夫と愛人のデートを自分の目で見たわけではない。しかし探偵の撮ったフィルムの中には「現実」が映し出されている。自分の目で見たのではないものが、現実としてそこにある。
私たちが映画を見るとき、それと同じことを体験している。私たちは映像を見ているが、現実は見ていない。そして現実と錯覚する。これがフィクションなら、それは単に錯覚と言ってしまえるが、夫の浮気現場となれば、見たものを「錯覚」とは言えない。
何か、変なものがあるでしょ? この論理。
この変なものを、映画の中で、ジュリエッタ・マシーナはどう乗り越えていくか。日々、「幻想」に悩まされているだけに、これは非常にむずかしい問題だ。
どうやって、乗り越える?
このことを考えると、フェリーニはいい加減だなあ、というか、男はいい加減なもんだね、と思う。フェリーニ夫婦の体験がどこかに反映されていると思うのだが(「8 1/2 」以上に「個人的体験」が反映されていると思うのだが)、男は知らん顔をしている。女には困難を乗り越える力がある、と甘えきっている。そこのところがおかしい。いまは、こういう映画はもうつくれないだろうなあ、と思う。演じてくれる女優がいないような気がする。フェリーニに言わせれば、男の問題は「8 1/2 」で描いたから、今度は女の問題を描いた、ということになるのかもしれない。
壇一雄に「火宅の人」という小説がある。映画にもなった。主人公を作家(男)ではなく妻(女)にして展開すれば「魂のジュリエッタ」ではなく、「魂のリツ子」になるのか。
脱線した。目で見るのは現実か、幻想か。幻想は目で見るのか、目以外のもので見るのか、というところに踏み込んで、それを目に見える映画にする、というのはとてもおもしろいテーマだと思う。
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 ジュリエッタ・マシーナ
フェデリコ・フェリーニ初のカラー作品。黒沢明の「どですかでん」を見たときのように、何か、不安な気持ちで見てしまう。
あとは、イタリアは中国と同じで「歴史」があるから、なんでも巨大になってしまうという感じ。ケタが外れている。しかし、ケタが外れながら、妙に「完結性」がある。けばけばしい化粧や衣裳、明確な色彩の氾濫。それは、なぜか「競合」して互いを打ち消してしまうということがない。不思議なバランスがある。
「どですかでん」を見たときは、モノクロの方がいいのに、と思いながら見た。フェリーニの場合は、そこまでは感じないが、「色が硬い」という感じがする。人工的、といえばいいのか。でも、人工的だからこそ、そこに不思議な調和もある。繰り返しになるが、不思議なバランスがある。
なぜなんだろうなあ。
別の角度から、見てみる。
この映画の特徴は、最初にあらわれている。
ジュリエッタ・マシーナの「顔」がなかなかスクリーンに映らない。カツラをとっかえ、ひっかえする。衣裳も変える。それを後ろ姿で見せる。やっと正面を向いたと思っても、影で見えない。この逆光のために顔が見えないというシーンは何回か出てくる。
映画で、役者の顔を見せないで、いったい何を見せるのか。
その疑問の中に、この映画の答えがある。フェリーニが描くのは、まず、ジュリエッタ・マシーナが「見る」世界なのである。どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、はっきりしない。目をつむって見るのが幻想とは言い切れない。目に見える幻想を消すために目をつむるということさえするのだから。
幻想は目で見るのではなく、「魂」で見る、とフェデリコ・フェリーニは言うかもしれない。私は「魂」というものがよくわからないので、ここは保留にしておく。ただし、目以外のもので見ている、ということだけは確かだと思う。そして、この「目以外で見る」ということが明確に意識されているために、全体のバランスが崩れないのかもしれないと思った。意識の明確さが「人工的」という印象を誘うのかもしれない。
この「目以外で見る」ということを、映画という「目に見えるもの」にするというのは、なかなか複雑であり、刺激的だ。象徴的なのが、夫の浮気を撮影したフィルム。ジュリエッタ・マシーナは、夫と愛人のデートを自分の目で見たわけではない。しかし探偵の撮ったフィルムの中には「現実」が映し出されている。自分の目で見たのではないものが、現実としてそこにある。
私たちが映画を見るとき、それと同じことを体験している。私たちは映像を見ているが、現実は見ていない。そして現実と錯覚する。これがフィクションなら、それは単に錯覚と言ってしまえるが、夫の浮気現場となれば、見たものを「錯覚」とは言えない。
何か、変なものがあるでしょ? この論理。
この変なものを、映画の中で、ジュリエッタ・マシーナはどう乗り越えていくか。日々、「幻想」に悩まされているだけに、これは非常にむずかしい問題だ。
どうやって、乗り越える?
このことを考えると、フェリーニはいい加減だなあ、というか、男はいい加減なもんだね、と思う。フェリーニ夫婦の体験がどこかに反映されていると思うのだが(「8 1/2 」以上に「個人的体験」が反映されていると思うのだが)、男は知らん顔をしている。女には困難を乗り越える力がある、と甘えきっている。そこのところがおかしい。いまは、こういう映画はもうつくれないだろうなあ、と思う。演じてくれる女優がいないような気がする。フェリーニに言わせれば、男の問題は「8 1/2 」で描いたから、今度は女の問題を描いた、ということになるのかもしれない。
壇一雄に「火宅の人」という小説がある。映画にもなった。主人公を作家(男)ではなく妻(女)にして展開すれば「魂のジュリエッタ」ではなく、「魂のリツ子」になるのか。
脱線した。目で見るのは現実か、幻想か。幻想は目で見るのか、目以外のもので見るのか、というところに踏み込んで、それを目に見える映画にする、というのはとてもおもしろいテーマだと思う。