詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」

2020-11-10 18:44:37 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」(★★★+★)(2020年11月10日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 ジュリエッタ・マシーナ

 フェデリコ・フェリーニ初のカラー作品。黒沢明の「どですかでん」を見たときのように、何か、不安な気持ちで見てしまう。
 あとは、イタリアは中国と同じで「歴史」があるから、なんでも巨大になってしまうという感じ。ケタが外れている。しかし、ケタが外れながら、妙に「完結性」がある。けばけばしい化粧や衣裳、明確な色彩の氾濫。それは、なぜか「競合」して互いを打ち消してしまうということがない。不思議なバランスがある。
 「どですかでん」を見たときは、モノクロの方がいいのに、と思いながら見た。フェリーニの場合は、そこまでは感じないが、「色が硬い」という感じがする。人工的、といえばいいのか。でも、人工的だからこそ、そこに不思議な調和もある。繰り返しになるが、不思議なバランスがある。
 なぜなんだろうなあ。
 別の角度から、見てみる。
 この映画の特徴は、最初にあらわれている。
 ジュリエッタ・マシーナの「顔」がなかなかスクリーンに映らない。カツラをとっかえ、ひっかえする。衣裳も変える。それを後ろ姿で見せる。やっと正面を向いたと思っても、影で見えない。この逆光のために顔が見えないというシーンは何回か出てくる。
 映画で、役者の顔を見せないで、いったい何を見せるのか。
 その疑問の中に、この映画の答えがある。フェリーニが描くのは、まず、ジュリエッタ・マシーナが「見る」世界なのである。どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、はっきりしない。目をつむって見るのが幻想とは言い切れない。目に見える幻想を消すために目をつむるということさえするのだから。
 幻想は目で見るのではなく、「魂」で見る、とフェデリコ・フェリーニは言うかもしれない。私は「魂」というものがよくわからないので、ここは保留にしておく。ただし、目以外のもので見ている、ということだけは確かだと思う。そして、この「目以外で見る」ということが明確に意識されているために、全体のバランスが崩れないのかもしれないと思った。意識の明確さが「人工的」という印象を誘うのかもしれない。
 この「目以外で見る」ということを、映画という「目に見えるもの」にするというのは、なかなか複雑であり、刺激的だ。象徴的なのが、夫の浮気を撮影したフィルム。ジュリエッタ・マシーナは、夫と愛人のデートを自分の目で見たわけではない。しかし探偵の撮ったフィルムの中には「現実」が映し出されている。自分の目で見たのではないものが、現実としてそこにある。
 私たちが映画を見るとき、それと同じことを体験している。私たちは映像を見ているが、現実は見ていない。そして現実と錯覚する。これがフィクションなら、それは単に錯覚と言ってしまえるが、夫の浮気現場となれば、見たものを「錯覚」とは言えない。
 何か、変なものがあるでしょ? この論理。
 この変なものを、映画の中で、ジュリエッタ・マシーナはどう乗り越えていくか。日々、「幻想」に悩まされているだけに、これは非常にむずかしい問題だ。
 どうやって、乗り越える?
 このことを考えると、フェリーニはいい加減だなあ、というか、男はいい加減なもんだね、と思う。フェリーニ夫婦の体験がどこかに反映されていると思うのだが(「8 1/2 」以上に「個人的体験」が反映されていると思うのだが)、男は知らん顔をしている。女には困難を乗り越える力がある、と甘えきっている。そこのところがおかしい。いまは、こういう映画はもうつくれないだろうなあ、と思う。演じてくれる女優がいないような気がする。フェリーニに言わせれば、男の問題は「8 1/2 」で描いたから、今度は女の問題を描いた、ということになるのかもしれない。
 壇一雄に「火宅の人」という小説がある。映画にもなった。主人公を作家(男)ではなく妻(女)にして展開すれば「魂のジュリエッタ」ではなく、「魂のリツ子」になるのか。
 脱線した。目で見るのは現実か、幻想か。幻想は目で見るのか、目以外のもので見るのか、というところに踏み込んで、それを目に見える映画にする、というのはとてもおもしろいテーマだと思う。


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徳永孝「アルパカ」、青柳俊哉「空の想い」、池田清子「教え」

2020-11-10 10:57:35 | 現代詩講座
徳永孝「アルパカ」、青柳俊哉「空の想い」、池田清子「教え」(朝日カルチャーセンタ福岡、2020年11月02日)

アルパカ  徳永孝

薬局の庭に
アルパカがいる
そう話すと

そんなの
どんなふうにして飼っているの?
と聞く

作り物だけど

ぼくは
アルパカに会いに
薬局に行く

 徳永は対話を描くことで、そこに人間性をあらわす。この詩でも「話す」「聞く」ということばが、この詩が対話なのだと補足している。
 質問する。「一連目はだれのことば?」
 「ぼく、のことば」(話す、という動詞がある)
 「二連目は?」
 「相手のことば」(聞く、という動詞が、話すと対になり、対話であることを証明する)
 「三連目は?」
 「ぼく」
 「四連目は?」
 「ぼく」
 対話であるけれど、ここで動いているのは「ぼく」のこころ。対話者のこころは、ここではあまり説明されていない。
 「ぼく、は何歳くらい? 相手は何歳くらい?」
 書いた本人がいるので、こういう質問に答えるのはなかなかむずかしい。しかし、文字だけを読んだと仮定して、どのことばを手がかりにしたら「ぼく」や相手の年齢がわかるか。徳永は、周囲のひとから「徳永の詩は、こどもっぽい」と言われるそうだが……。
 「ぼく」はたしかにこどもとも受け止めることができる。でも、相手は?
 「おとなだと思う」
 「どうして?」
 「どんなふうにして飼ってるの? とは、こどもは言わないかも」
 「こどもなら、なんて言う?」
 「あ、見たい、とか、大きい? 小さい? 色は? とか」
 私もそう思う。こどもは対象(アルパカ)そのものに関心を持つ。飼育にまでは気が向かない。けれど、おとなは飼育を考える。街中で、どうやって飼うんだろう、と考えてしまう。
 だから、相手は、おとなであると仮定して。
 でもおとながこどもに対して「どんなふうにして飼っているの?」と聞くことはあるかもしれないから、二連目だけでは「ぼく」は何歳かまだわからない。おとなか、こどもかまだ断定できない。
 「ぼく」は何歳?
 私は一連目に手がかりかあると思う。
 「そう話すと」の「と」。この「と」は二連目を引き寄せている。意識が「話すと」どうなるかを意識している。答えが返ってくることを待っている。答えを想定しているときの「と」なのである。たしかに、答え方の中に、相手の「ひとがら(人間性)」のようなものが見える。おとなであっても、「えっ、私、アルパカが大好き。見に行きたい」というかもしれない。こどものこころをもったおとな、ということになる。
 こんなことを考えながら話す(答えを想定しながらことばを動かす)のは、おとなである。もちろんこどももそうするが、私は、おとなだと思って読む。それは三連目で明らかになる。
 「作り物だけれど」と「ぼく」はことばを途中で止めている。ちょっと、相手の反応が「ぼく」の予想とは違っていたのだ。微妙な変化のなかに、「おとな性」があらわれていると思う。そしてこの「おとな性」は少し悲しみのようなものを含んでいる。もし、「あ、見たい、一緒に連れて行って」ということばが返ってきたのだったら、きっと三連目、四連目は違った具合に動いていくと思う。
 「作り物だけれど」のなかには、こんな街中にほんものがいるわけがないのだけれど、ほんものを想像するひとだったら楽しくなるだろうなあ、という期待があるかもしれない。ほんものではない(作り物である)と言っても、「見に行きたい」というひとだったら楽しいかなあ、という期待があるかもしれない。
 こういう「揺らぎ」のようなものが楽しい。
 最終連の「会う」という動詞も、「ぼく」のこころをあらわしている。「見に行く」のではなく「会いに行く」。
 「なぜ、会いに行く、なんだろう」
 「気に入っているから」
 「好きだから」
 ということは。
 「ぼく」は「アルパカ(のぬいぐるみ)が好き」という気持ちを相手と共有したかったのである。何かを「好き」と感じる、その「好き」を共有することは、相手を好きになることであり、また相手が「ぼく」を好きになることだ。
 「ぼく」は二人でアルパカに会いに行ったのか、ひとりで行ったのか。「結論」は書いてない。「結論」は、読者がそれぞれ考えればいいことだからである。

 徳永は、最初、この詩を一連が三行ずつの詩にしようとしたらしい。でも、三連目を一行で終わらせた。これは、とても効果的だと思う。ここでリズムの変化が起きる。「起承転結」の「転」が一行でおこなわれ、それが短いだけに「結」をどう読むかがさまざまに変わるからだ。また、その一行の「独立感」が、一連目の「と」、二連目の「飼う」、四連目の「会う」という細部へと視線を誘う。サッと書かれていることばのなかに「秘密」のようなものがあると誘う。
 


空の想い  青柳俊哉

百日紅(さるすべり)のしなやかな枝先の
濃密な小花の泡立ちもおとろえて
いくつか羊雲がうかぶ

言いつくせない言葉と
水の濃淡を果てしなくかさねて
大きな感情が空をつつむ

月のない空に 
たばねられる雲が
淡い小豆(あずき)のように想いをつつんでいる

明るさのちがう星へ
蟋蟀(こおろぎ)も光をかさねて
ひとつ模様にむすばれる世界

 「空の想い、というタイトルがいいなあ」
 「この、空の想いって、空が主語? つまり、空そのものが何かを想っている? それとも私が空のことを想っている?」
 「空自身の想い」
 青柳が空になって「想い」を書いている。空と一体になって書いている。書いているのは青柳だが、書いているときは空でもある。
 描写の中に客観と主観が融合する。
 花、雲、空、水が融合する。
 「かさね(る)」ということばがくりかえされる。「つつむ」も二度出てくる。「かさねる」「つつむ」は「むすばれる(むすぶ)」という動詞に結晶し、その瞬間「大きな感情」になる。それは「深い感情」といいなおすことができるだろう。
 四連目の「蟋蟀」によって、「空」と「大地」が「ひとつ」になるときの「ひろがり」というか「複雑さ(深み)」が象徴されていると思う。ただ二連目で「大きな感情」と簡単に言ってしまっているのが、詩を逆に小さくさせているかもしれない。

 「三連目の、小豆のイメージがよくわからない」という声があった。
 私もわからなかった。なぜ、ここで突然小豆が出てくるのか。
 青柳は白あんのイメージだといった。あんは「つつむ」という動詞と結びついている。雲の描写なのだが、一連目は生クリームのイメージ。三連目は雲のイメージの反復なのだが、一連目とは印象に変化をつけたかった。サルスベリにはピンクと白がある。そういうことが小豆(ピンク)に反映している。
 この「説明」は論理的かもしれないが、論理にこだわっているという感じもする。

* 

教え  池田清子

武士は食わねど高楊枝
乏しきを憂えず
等しからざるを憂う
と よく言っていた

家は貧しいのかと
あとから思った

ほねかわすじえもん
確かに
父は痩せていた


等しく
たくさん
分けられるのに

飛び発ってしまった

 「父がいない(亡くなった)ことを書いているのに、必ずしも悲しくないのがいい」という感想が聞かれた。その通りだと思う。
 私は一連目の「等し」が四連目で「等しく」ということばになって復活してくるところがとても好き。二連目の「あとから思った」の「あとから」もいいなあ。そのときはわからないことが、あとからわかる。「等しい」が重要であるということも、「あとから」(いまになって)わかったのだ。
 こういう「自然な変化(?)」は詩全体の動きにも通じる。
 一連目は文語調の響き。「よく言っていた」の主語は「父」だが、すぐには登場せず三連目まで待たなければならないというのも、さらりとした書き方だが効果的だ。一連目にことばとして登場しないのは、「父」と「父のことば」が池田の「肉体(思想)」になってしまっているためだ。
 三連目の「ほねかわすじえもん」という書き方も効果だ。感じで書いてしまうと硬い印象になる。型苦しくて、ユーモアにならない。教訓になってしまう。ひらがなで書くことで、なんとなくおかしみを誘う。「武士は食わねど高楊枝」は実践だったのか、それとも痩せていることをごまかすために言っていた口癖なのか。それは、どちらでもいい。池田が父のことばから引き継いだものは「等しく」ということばの方なのだから。その「等しく」を忘れないために「武士は食わねど高楊枝」と「ほねかわすじえもん」がある。
 そして、この「等しく」が繰り返されるときには、そこには文語調の響きは消えて、すっかり口語になっている。これは「等しく」が池田の肉体になってしまっているということだろう。
 最後の「飛び発つ」も明るさを引き寄せる。










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