徳永孝「アルパカ」、青柳俊哉「空の想い」、池田清子「教え」(朝日カルチャーセンタ福岡、2020年11月02日)
徳永は対話を描くことで、そこに人間性をあらわす。この詩でも「話す」「聞く」ということばが、この詩が対話なのだと補足している。
質問する。「一連目はだれのことば?」
「ぼく、のことば」(話す、という動詞がある)
「二連目は?」
「相手のことば」(聞く、という動詞が、話すと対になり、対話であることを証明する)
「三連目は?」
「ぼく」
「四連目は?」
「ぼく」
対話であるけれど、ここで動いているのは「ぼく」のこころ。対話者のこころは、ここではあまり説明されていない。
「ぼく、は何歳くらい? 相手は何歳くらい?」
書いた本人がいるので、こういう質問に答えるのはなかなかむずかしい。しかし、文字だけを読んだと仮定して、どのことばを手がかりにしたら「ぼく」や相手の年齢がわかるか。徳永は、周囲のひとから「徳永の詩は、こどもっぽい」と言われるそうだが……。
「ぼく」はたしかにこどもとも受け止めることができる。でも、相手は?
「おとなだと思う」
「どうして?」
「どんなふうにして飼ってるの? とは、こどもは言わないかも」
「こどもなら、なんて言う?」
「あ、見たい、とか、大きい? 小さい? 色は? とか」
私もそう思う。こどもは対象(アルパカ)そのものに関心を持つ。飼育にまでは気が向かない。けれど、おとなは飼育を考える。街中で、どうやって飼うんだろう、と考えてしまう。
だから、相手は、おとなであると仮定して。
でもおとながこどもに対して「どんなふうにして飼っているの?」と聞くことはあるかもしれないから、二連目だけでは「ぼく」は何歳かまだわからない。おとなか、こどもかまだ断定できない。
「ぼく」は何歳?
私は一連目に手がかりかあると思う。
「そう話すと」の「と」。この「と」は二連目を引き寄せている。意識が「話すと」どうなるかを意識している。答えが返ってくることを待っている。答えを想定しているときの「と」なのである。たしかに、答え方の中に、相手の「ひとがら(人間性)」のようなものが見える。おとなであっても、「えっ、私、アルパカが大好き。見に行きたい」というかもしれない。こどものこころをもったおとな、ということになる。
こんなことを考えながら話す(答えを想定しながらことばを動かす)のは、おとなである。もちろんこどももそうするが、私は、おとなだと思って読む。それは三連目で明らかになる。
「作り物だけれど」と「ぼく」はことばを途中で止めている。ちょっと、相手の反応が「ぼく」の予想とは違っていたのだ。微妙な変化のなかに、「おとな性」があらわれていると思う。そしてこの「おとな性」は少し悲しみのようなものを含んでいる。もし、「あ、見たい、一緒に連れて行って」ということばが返ってきたのだったら、きっと三連目、四連目は違った具合に動いていくと思う。
「作り物だけれど」のなかには、こんな街中にほんものがいるわけがないのだけれど、ほんものを想像するひとだったら楽しくなるだろうなあ、という期待があるかもしれない。ほんものではない(作り物である)と言っても、「見に行きたい」というひとだったら楽しいかなあ、という期待があるかもしれない。
こういう「揺らぎ」のようなものが楽しい。
最終連の「会う」という動詞も、「ぼく」のこころをあらわしている。「見に行く」のではなく「会いに行く」。
「なぜ、会いに行く、なんだろう」
「気に入っているから」
「好きだから」
ということは。
「ぼく」は「アルパカ(のぬいぐるみ)が好き」という気持ちを相手と共有したかったのである。何かを「好き」と感じる、その「好き」を共有することは、相手を好きになることであり、また相手が「ぼく」を好きになることだ。
「ぼく」は二人でアルパカに会いに行ったのか、ひとりで行ったのか。「結論」は書いてない。「結論」は、読者がそれぞれ考えればいいことだからである。
徳永は、最初、この詩を一連が三行ずつの詩にしようとしたらしい。でも、三連目を一行で終わらせた。これは、とても効果的だと思う。ここでリズムの変化が起きる。「起承転結」の「転」が一行でおこなわれ、それが短いだけに「結」をどう読むかがさまざまに変わるからだ。また、その一行の「独立感」が、一連目の「と」、二連目の「飼う」、四連目の「会う」という細部へと視線を誘う。サッと書かれていることばのなかに「秘密」のようなものがあると誘う。
*
「空の想い、というタイトルがいいなあ」
「この、空の想いって、空が主語? つまり、空そのものが何かを想っている? それとも私が空のことを想っている?」
「空自身の想い」
青柳が空になって「想い」を書いている。空と一体になって書いている。書いているのは青柳だが、書いているときは空でもある。
描写の中に客観と主観が融合する。
花、雲、空、水が融合する。
「かさね(る)」ということばがくりかえされる。「つつむ」も二度出てくる。「かさねる」「つつむ」は「むすばれる(むすぶ)」という動詞に結晶し、その瞬間「大きな感情」になる。それは「深い感情」といいなおすことができるだろう。
四連目の「蟋蟀」によって、「空」と「大地」が「ひとつ」になるときの「ひろがり」というか「複雑さ(深み)」が象徴されていると思う。ただ二連目で「大きな感情」と簡単に言ってしまっているのが、詩を逆に小さくさせているかもしれない。
「三連目の、小豆のイメージがよくわからない」という声があった。
私もわからなかった。なぜ、ここで突然小豆が出てくるのか。
青柳は白あんのイメージだといった。あんは「つつむ」という動詞と結びついている。雲の描写なのだが、一連目は生クリームのイメージ。三連目は雲のイメージの反復なのだが、一連目とは印象に変化をつけたかった。サルスベリにはピンクと白がある。そういうことが小豆(ピンク)に反映している。
この「説明」は論理的かもしれないが、論理にこだわっているという感じもする。
*
「父がいない(亡くなった)ことを書いているのに、必ずしも悲しくないのがいい」という感想が聞かれた。その通りだと思う。
私は一連目の「等し」が四連目で「等しく」ということばになって復活してくるところがとても好き。二連目の「あとから思った」の「あとから」もいいなあ。そのときはわからないことが、あとからわかる。「等しい」が重要であるということも、「あとから」(いまになって)わかったのだ。
こういう「自然な変化(?)」は詩全体の動きにも通じる。
一連目は文語調の響き。「よく言っていた」の主語は「父」だが、すぐには登場せず三連目まで待たなければならないというのも、さらりとした書き方だが効果的だ。一連目にことばとして登場しないのは、「父」と「父のことば」が池田の「肉体(思想)」になってしまっているためだ。
三連目の「ほねかわすじえもん」という書き方も効果だ。感じで書いてしまうと硬い印象になる。型苦しくて、ユーモアにならない。教訓になってしまう。ひらがなで書くことで、なんとなくおかしみを誘う。「武士は食わねど高楊枝」は実践だったのか、それとも痩せていることをごまかすために言っていた口癖なのか。それは、どちらでもいい。池田が父のことばから引き継いだものは「等しく」ということばの方なのだから。その「等しく」を忘れないために「武士は食わねど高楊枝」と「ほねかわすじえもん」がある。
そして、この「等しく」が繰り返されるときには、そこには文語調の響きは消えて、すっかり口語になっている。これは「等しく」が池田の肉体になってしまっているということだろう。
最後の「飛び発つ」も明るさを引き寄せる。
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アルパカ 徳永孝
薬局の庭に
アルパカがいる
そう話すと
そんなの
どんなふうにして飼っているの?
と聞く
作り物だけど
ぼくは
アルパカに会いに
薬局に行く
徳永は対話を描くことで、そこに人間性をあらわす。この詩でも「話す」「聞く」ということばが、この詩が対話なのだと補足している。
質問する。「一連目はだれのことば?」
「ぼく、のことば」(話す、という動詞がある)
「二連目は?」
「相手のことば」(聞く、という動詞が、話すと対になり、対話であることを証明する)
「三連目は?」
「ぼく」
「四連目は?」
「ぼく」
対話であるけれど、ここで動いているのは「ぼく」のこころ。対話者のこころは、ここではあまり説明されていない。
「ぼく、は何歳くらい? 相手は何歳くらい?」
書いた本人がいるので、こういう質問に答えるのはなかなかむずかしい。しかし、文字だけを読んだと仮定して、どのことばを手がかりにしたら「ぼく」や相手の年齢がわかるか。徳永は、周囲のひとから「徳永の詩は、こどもっぽい」と言われるそうだが……。
「ぼく」はたしかにこどもとも受け止めることができる。でも、相手は?
「おとなだと思う」
「どうして?」
「どんなふうにして飼ってるの? とは、こどもは言わないかも」
「こどもなら、なんて言う?」
「あ、見たい、とか、大きい? 小さい? 色は? とか」
私もそう思う。こどもは対象(アルパカ)そのものに関心を持つ。飼育にまでは気が向かない。けれど、おとなは飼育を考える。街中で、どうやって飼うんだろう、と考えてしまう。
だから、相手は、おとなであると仮定して。
でもおとながこどもに対して「どんなふうにして飼っているの?」と聞くことはあるかもしれないから、二連目だけでは「ぼく」は何歳かまだわからない。おとなか、こどもかまだ断定できない。
「ぼく」は何歳?
私は一連目に手がかりかあると思う。
「そう話すと」の「と」。この「と」は二連目を引き寄せている。意識が「話すと」どうなるかを意識している。答えが返ってくることを待っている。答えを想定しているときの「と」なのである。たしかに、答え方の中に、相手の「ひとがら(人間性)」のようなものが見える。おとなであっても、「えっ、私、アルパカが大好き。見に行きたい」というかもしれない。こどものこころをもったおとな、ということになる。
こんなことを考えながら話す(答えを想定しながらことばを動かす)のは、おとなである。もちろんこどももそうするが、私は、おとなだと思って読む。それは三連目で明らかになる。
「作り物だけれど」と「ぼく」はことばを途中で止めている。ちょっと、相手の反応が「ぼく」の予想とは違っていたのだ。微妙な変化のなかに、「おとな性」があらわれていると思う。そしてこの「おとな性」は少し悲しみのようなものを含んでいる。もし、「あ、見たい、一緒に連れて行って」ということばが返ってきたのだったら、きっと三連目、四連目は違った具合に動いていくと思う。
「作り物だけれど」のなかには、こんな街中にほんものがいるわけがないのだけれど、ほんものを想像するひとだったら楽しくなるだろうなあ、という期待があるかもしれない。ほんものではない(作り物である)と言っても、「見に行きたい」というひとだったら楽しいかなあ、という期待があるかもしれない。
こういう「揺らぎ」のようなものが楽しい。
最終連の「会う」という動詞も、「ぼく」のこころをあらわしている。「見に行く」のではなく「会いに行く」。
「なぜ、会いに行く、なんだろう」
「気に入っているから」
「好きだから」
ということは。
「ぼく」は「アルパカ(のぬいぐるみ)が好き」という気持ちを相手と共有したかったのである。何かを「好き」と感じる、その「好き」を共有することは、相手を好きになることであり、また相手が「ぼく」を好きになることだ。
「ぼく」は二人でアルパカに会いに行ったのか、ひとりで行ったのか。「結論」は書いてない。「結論」は、読者がそれぞれ考えればいいことだからである。
徳永は、最初、この詩を一連が三行ずつの詩にしようとしたらしい。でも、三連目を一行で終わらせた。これは、とても効果的だと思う。ここでリズムの変化が起きる。「起承転結」の「転」が一行でおこなわれ、それが短いだけに「結」をどう読むかがさまざまに変わるからだ。また、その一行の「独立感」が、一連目の「と」、二連目の「飼う」、四連目の「会う」という細部へと視線を誘う。サッと書かれていることばのなかに「秘密」のようなものがあると誘う。
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空の想い 青柳俊哉
百日紅(さるすべり)のしなやかな枝先の
濃密な小花の泡立ちもおとろえて
いくつか羊雲がうかぶ
言いつくせない言葉と
水の濃淡を果てしなくかさねて
大きな感情が空をつつむ
月のない空に
たばねられる雲が
淡い小豆(あずき)のように想いをつつんでいる
明るさのちがう星へ
蟋蟀(こおろぎ)も光をかさねて
ひとつ模様にむすばれる世界
「空の想い、というタイトルがいいなあ」
「この、空の想いって、空が主語? つまり、空そのものが何かを想っている? それとも私が空のことを想っている?」
「空自身の想い」
青柳が空になって「想い」を書いている。空と一体になって書いている。書いているのは青柳だが、書いているときは空でもある。
描写の中に客観と主観が融合する。
花、雲、空、水が融合する。
「かさね(る)」ということばがくりかえされる。「つつむ」も二度出てくる。「かさねる」「つつむ」は「むすばれる(むすぶ)」という動詞に結晶し、その瞬間「大きな感情」になる。それは「深い感情」といいなおすことができるだろう。
四連目の「蟋蟀」によって、「空」と「大地」が「ひとつ」になるときの「ひろがり」というか「複雑さ(深み)」が象徴されていると思う。ただ二連目で「大きな感情」と簡単に言ってしまっているのが、詩を逆に小さくさせているかもしれない。
「三連目の、小豆のイメージがよくわからない」という声があった。
私もわからなかった。なぜ、ここで突然小豆が出てくるのか。
青柳は白あんのイメージだといった。あんは「つつむ」という動詞と結びついている。雲の描写なのだが、一連目は生クリームのイメージ。三連目は雲のイメージの反復なのだが、一連目とは印象に変化をつけたかった。サルスベリにはピンクと白がある。そういうことが小豆(ピンク)に反映している。
この「説明」は論理的かもしれないが、論理にこだわっているという感じもする。
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教え 池田清子
武士は食わねど高楊枝
乏しきを憂えず
等しからざるを憂う
と よく言っていた
家は貧しいのかと
あとから思った
ほねかわすじえもん
確かに
父は痩せていた
今
等しく
たくさん
分けられるのに
皆
飛び発ってしまった
「父がいない(亡くなった)ことを書いているのに、必ずしも悲しくないのがいい」という感想が聞かれた。その通りだと思う。
私は一連目の「等し」が四連目で「等しく」ということばになって復活してくるところがとても好き。二連目の「あとから思った」の「あとから」もいいなあ。そのときはわからないことが、あとからわかる。「等しい」が重要であるということも、「あとから」(いまになって)わかったのだ。
こういう「自然な変化(?)」は詩全体の動きにも通じる。
一連目は文語調の響き。「よく言っていた」の主語は「父」だが、すぐには登場せず三連目まで待たなければならないというのも、さらりとした書き方だが効果的だ。一連目にことばとして登場しないのは、「父」と「父のことば」が池田の「肉体(思想)」になってしまっているためだ。
三連目の「ほねかわすじえもん」という書き方も効果だ。感じで書いてしまうと硬い印象になる。型苦しくて、ユーモアにならない。教訓になってしまう。ひらがなで書くことで、なんとなくおかしみを誘う。「武士は食わねど高楊枝」は実践だったのか、それとも痩せていることをごまかすために言っていた口癖なのか。それは、どちらでもいい。池田が父のことばから引き継いだものは「等しく」ということばの方なのだから。その「等しく」を忘れないために「武士は食わねど高楊枝」と「ほねかわすじえもん」がある。
そして、この「等しく」が繰り返されるときには、そこには文語調の響きは消えて、すっかり口語になっている。これは「等しく」が池田の肉体になってしまっているということだろう。
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