詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)を読む(1)

2018-08-06 11:34:06 | 嵯峨信之/動詞
                         2018年08月06日(月曜日)

(不幸よ)

不幸よ
わが偉大な休息の島
その空を飛んでいる一羽の信天翁よ

 「不幸」「島」「信天翁」は、「ひとつ」のものである。どのことばがどのことばの「比喩」なのか、特定はできない。相互に呼び合っている。
 「動詞」を探してみる。
 「休息の島」には「休息する」という動詞が隠れている。
 この「休息する」と「飛んでいる」が向き合う。そこには矛盾がある。この矛盾は、島(海)と空という対比と結びつく。

 そうであるなら。

 「不幸」は書かれていない「幸福」と呼び合っているはずだ。矛盾が呼び掛け合って世界をつくっているがこの詩だからだ。
 この詩は、だから

幸福よ
わが偉大な休息の島
その空を飛んでいる一羽の信天翁よ

 と読み替えることができる。
 実際、「不幸よ」ということばで始まる詩を読んでも、何が不幸なのかわからない。「ゆったりと休息する」こと人間の喜びだ。そのときこころは空を信天翁のようにゆっくりと飛んでいる。
 まばゆい光。透明な空気。

 矛盾で語る「不幸」、詩は「矛盾」でできている。




*

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やまもとあつこ「ハミングクイズ」

2018-08-06 11:02:51 | 詩(雑誌・同人誌)
やまもとあつこ「ハミングクイズ」(「ガーネット」85、2018年07月01日発行)

 やまもとあつこ「ハミングクイズ」は認知症(たぶん)の母親の介護をしているときの詩である。ほとんど声を出さない。ことばにならないのかもしれない。ときどきハミングをする。曲をつきとめ、歌うと、母親がそれにあわせて歌い始める。そういう暮らしをしている。歌うことが一種のリハビリになっている。だから真剣だ。曲をあてて歌いださないと、母親はどんどんことばをなくしてしまう。

風呂上がり
母のハミングがはじまった
 m……
今日はすぐにわかった
「仰げば尊し」

わたしが言葉をつけて歌い出すと
母のハミングも歌にかわる

 教えの庭にも はや幾年
 思えばいと疾し この年月

ここから わたしは 歌えない

 いまこそ わかれめ
 いざ さらば

母は 最後まで 歌った

 「仰げば尊し」の「わかれめ」は「わかれ」であっても出発である。その別れには再会がある。
 でも、ことばというのはそんなに単純ではない。「意味」は、いろんなところから噴き出してくる。
 やまもとにとって「別れ」は再会につながらない。
 歌おうとして、ふっと、声が止まったのだ。

 ということなのだが。

 うーん。
 私は鈍感な人間なので、言ってしまってから「あっ、しまった」と思うことがあるが、ことばを発する前に「言ってはいけない」と自制することがない。だから、この詩の展開にとても驚いた。
 そうなのか。
 介護というのは、直面している困難さを、そのときそのとき手助けするだけではないのだ。常に先取りしてそなえることが重要なのだ。
 やまもとは常に母の思い(ことば)を先取りする形で身構えて生きている。
 その習慣が歌っている瞬間にも出てきた。

 何と言えばいいのかわからないが。
 「介護」の実情、介護の実体というものに、圧倒された。介護は、予測、「先取り」によって、なりたっている。しかし、予測はいつでも「いい」ものだけを教えてくれるではない。どうすることもできないことを予測の中に含まれる。
 やまもとの語らなかったことばが、私の肉体の中で動く。ことばは、語られなくても肉体に入ってくる。肉体を支配する。同じことばを持ってしまう。この「共犯」感覚が詩なのだと思う。
 







*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(29)

2018-08-06 09:47:55 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
29 青空

 レストラン。放し飼いにされている亀がいる。「パンやサラダをしきりにねだる」。

パンに飽きると踵を返して 植え込みのアカントスを貪りはじめる
葉という葉が食い尽くされようと 憂うるな それらはまた生えてくる
神神が失せても 人が滅びても 青空は青空のまま

 「アカントスを貪りはじめる」が強い。アカントスはギリシアの文様として有名だが、実際にアカントスという植物もある。それ自体は一般名詞だが、この詩では「固有名詞」のように強く響く。「事実」だからだ。
 「ヘルメスの実」の無花果と同じように、「事実」は強い。
 ある瞬間を描いているだけなのに、その瞬間が、そこにしか存在しない「事実」として目の前にあらわれてくる。
 「事実」によって、想像力が動く。想像力とは「事実」を歪める力のことだが、「事実」は想像力を鍛え直す。
 「神神」というものは、存在するのか、存在しないのか。無視して、ことばは「青空」にたどりつく。「青空がある」という「事実」が「神神が失せても 人が滅びても」という想像力を叩き壊して出現してくる。「青空」も一般名詞だが、それが「固有名詞」になって出現してくる。「失せる」とか「滅びる」とかの「述語」をひきつれずに、突然、「もの(事実)」としてあらわれてくる。

 光が散らばっているギリシアの青空。
 
 不思議なことに、私は亀になってアカントスを貪りたいと思うのだ。そのとき、ギリシアの青空は、絶対的な青空、一回かぎりの、永遠の青空になる。






つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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